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Patek Philippe パテック・フィリップ

パテック・フィリップ(Patek Philippe)とは、スイスの高級時計メーカーである。1839年に2人のポーランド人アントニ・パテックとフランチシェック・チャペックによって創業された。

ヴァシュロン・コンスタンタン、オーデマ・ピゲとともに世界三大高級時計メーカーの一つとして数えられることが多い[1]。その中でもパテック・フィリップは頭一つ抜け出た存在とされている[1]。

過去にはカルティエティファニー、ギュブラン(Guberin )、ゴンドーロ・ラブリオ等宝石店向けに製品を納入していた。

かつては多くの製品がジュネーヴシールの認証を受けていたが、現在は自社独自の認証マークである「パテック・フィリップ・シール」に切り替わった[1][注釈 1]。

世界一高価な腕時計を販売するマニュファクチュールとしても知られている。

グランドコンプリケーションはパテックフィリップの中でも最高峰のモデルである。

 

1811年4月4日 - 創業者フランティシェック・チャペック (František Čapek ) 、ボヘミアの現在はヤロミェジ (Jaroměř ) の一部であるセモニツェ (Semonice ) 村に産まれた。後に時計職人としてワルシャワに移住し、フランチシェック・チャペック (Franciszek Czapek ) とポーランド風に改名。
1812年7月12日 - 創業者アントニ・パテック(Antoni Patek ) 、「プラヴジツ (Prawdzic ) 紋章」を持つポーランド貴族(シュラフタ)の子としてポーランド、ルブリン市近郊のピャスキ・ルテルスキェ (Piaski Luterskie ) に産まれた。
1821年頃 - パテック、10歳の時両親とともにワルシャワへ移った。
1828年 - パテック、16歳でポーランド陸軍に入隊、「第1騎馬ライフル連隊」に配属。
1830年 - パテックとチャペック、ポーランド人によるロシア支配に対する反乱11月蜂起に参加した。パテックは、ロシア軍との戦闘における活躍により少尉に昇進、「8月1日旅団」の副官に昇格。1831年にはその功績が認められポーランド軍最高の栄誉である「ヴィルトゥーティ・ミリターリ勲章」 (Virtuti Militari ) を授与された。
同時期、チャペックはポーランド人の民兵組織である「ポーランド国民衛兵」の兵士としてワルシャワでロシア軍を相手に戦った。

1832年 - パテック、ロシア軍が制圧したポーランドから脱出。このときポーランド軍がその脱出ルート上に設置した5箇所の集結地点のうちの1つ、ミュンヘン近郊のバンベルクにあったポーランド軍陣地の司令官に任命された。
フランスへ亡命後しばらくは亡命ポーランド軍将校としてフランス側につき各地を転戦した。その後、軍を退役しアミアンに定住し植字工となった。

創業期編集
1835年頃 - パテックとチャペック、スイスのジュネーヴに移住する。その後、パリへ旅に出て得た経験から高級懐中時計の販売を始めた。
1839年5月1日 - パテックとチャペックは共同で事業を開始することで同意し、同郷であるポーランド人時計製造業者のヴァヴジニェツ・ゴストコフスキ、ヴィンセンティ・ゴストコフスキ、ヴワディワフ・バンドゥルスキの財政援助を得て「Patek, Czapek & Cie」を創業、これより1850年ごろまでポーランドの歴史と文化に関連したデザインの懐中時計をオーダーメイドで製造した。
1843年5月29日 - アントニ・パテック、ジュネーヴ市民となり、アントワーヌ・パテック(Antoine Patek)とフランス風に改名。
1844年 - パテック、自社製品をパリの博覧会に出品するためパリに赴き、ジャン・アドリアン・フィリップ(Jean Adrien Philippe)と出会った。フィリップが発明した「リューズ巻き上げ、時刻合わせ」の機構に感銘を受け、意気投合した。
1845年5月1日 - フィリップが入社、社名を「Patek & Cie」に変更。自社初の懐中ミニッツリピーターを製作。フランツ・リストシャーロット・ブロンテレフ・トルストイが懐中時計を購入。
1845年5月17日 - 創業者チャペック、「Patek & Cie」から去る。その後チャペックはポーランド、フランスで時計を製造したが、1869年頃に会社を清算し、その後の消息は不明。彼の名を冠したブランドは2011年にバーゼルで復興され、2014年にヌーシャテルに移転して2015年から複雑時計の発売を開始している。
名声の確立編集
1849年 - アメリカのティファニーに懐中時計供給を始めた。
1851年1月11日 - 社名を「Patek & Cie」から「Patek & Philippe Cie」に変更。
1851年 - ロンドン万国博覧会に出品、ヴィクトリア女王がリューズ巻上げ・時刻合わせ式の18金ペンダントウォッチを購入。
1854年 - 本社が現在地Quai General Guisanに移った。
1867年6月26日 - ローマ教皇ピウス9世が18金懐中クォーターリピーター[5]を購入。裏蓋には教皇の紋章と両側に月桂樹が七宝で描かれている。
1877年5月1日 - 創業者パテック死去。
1877年 - ピョートル・チャイコフスキールイ15世スタイルの懐中クォーターリピーターを購入。
1878年 - ティファニーアメリカ製工作機械を備えた自社のジュネーブの時計ムーブメント製造工場をパテックフィリップに売却[6](この影響で、この年代近辺では全く同じムーブメントでありながら、Tiffany製の物とPatek製の物が市場に流通している)。
1891年1月 - ジャン・フィリップが経営を息子のジョセフ・エミール・フィリップに譲る。
1894年1月5日 - ジャン・フィリップ死去。
事業の拡大編集
1895年頃 - マリ・キュリーがジュネーヴ芸術協会からペンダントウォッチを授与された。
1907年 - ジョセフ・エミール・フィリップ死去、その息子アドリアン・フィリップが会社の経営を引き継いだ。
1908年 - 現在の本社ビルが完成。
1915年 - アルベルト・アインシュタインが懐中時計を購入。
1927年4月6日 - パッカードの創業者の一人ジェームズ・ウォード・パッカード (James Ward Packard ) に「パッカードウォッチ」を12,815スイスフランで売却。
スターン兄弟による買収編集
1929年 - 世界大恐慌の影響で経営が悪化し、文字盤製造業者のジャン・スターン (Jean Stern ) とシャルル・スターン (Charles Stern ) 兄弟が資本参加した。
1932年6月14日 - スターン兄弟が会社を買収。 現在の社名である「Patek Philippe S.A.」に変更。
アドリアン・フィリップが経営から退き、ジャン・フィスター (Jean Pfister ) が社長に就任。ドレスウォッチの傑作Ref.96を発売。高級腕時計の代名詞となるカラトラバを発売。

1933年1月19日 - ヘンリー・グレーブス・ジュニア (Henry Graves Jr. ) からティファニーを通じて「史上一番複雑な時計」を受注し24機能の複雑時計「グレーブス・ウォッチ」を製作、60,000スイスフランで売却した。
会社の再建編集
1948年 - エレクトロニクス部門設立。
1949年5月15日 - ジャイロマックス・テンプの特許取得。スイス特許番号261431。
1951年12月31日 - ジャイロマックス・テンプの特許取得。スイス特許番号280067。
1956年 - 全電気式クォーツ時計を製作。
1958年 - ジャン・フィスターが退職、シャルル・スターンの息子で1936年以来ニューヨーク支店長だったアンリ・スターンが社長に就任。
1968年 - 「エリプス」シリーズ発売。最初のモデルはRef.3548。
1976年 - ジェラルド・ジェンタデザインによる「ノーチラス」シリーズ発売。最初のモデルはRef.3700/1。
1978年 - アンリ・スターンの息子フィリップ・スターンが社長就任。
1988年 - 「パッカード・ウォッチ」を買い戻した。
機械式時計の復興編集
1989年 - 「キャリバー89」を発表。
1993年 - 「ゴンドーロ」シリーズ発売。最初のモデルはRef.4824。
1999年12月 - サザビーズ・オークションにて「グレーブス・ウォッチ」が1個の時計としては史上最高値の11,002,500ドルで落札された。
2000年10月5日 - 西暦2000年を記念し21機能、パーツ数1118個の複雑時計「スターキャリバー2000」が発表された。ハーフハンター・ケース、ダブル・フェイス・ポケットウォッチ。ケース素材違いの4個が1セットで価格は7,500,000ドル。毎年1セットずつ5セットが製造された。
2002年4月 - アンティコルム・オークションにてルイ・コティエが考案した方式の1949年製ワールドタイムが腕時計としては史上最高値、当時の日本円で約4億8000万円で落札された。
2009年 - フィリップ・スターンの息子ティエリー・スターンが社長に就任。
2010年5月11日 - クリスティーズがスイスのジュネーヴで開いた腕時計のオークションで、1943年にワンオフで製作されたカレンダー・クロノグラフRef.1527が、競売に出された黄金の腕時計として史上最高値、腕時計全体でも歴代2位の約626万スイスフラン(約5億2200万円)で落札された。

 

 

TAG Heuer タグ・ホイヤー

タグ・ホイヤーTAG Heuer)は、スイスの高級時計メーカーである。

 

ドイツ系スイス人で、ベルン州ブリュック(ドイツ語版)出身のエドウアルト・ホイヤー(ドイツ語版)(1840年 - 1892年)が1860年に設立した。設立当初からストップウオッチや、クロノグラフといったスポーツウオッチの開発に力を注いでおり、クロノグラフの歴史に貢献している。近年では、トゥールビヨンや磁気を利用した新たなムーブメントの開発を行っている。

1985年までの社名はホイヤーであった。クオーツショックで資金難だったところをマンスール・オジェ率いるTAGグループ(現 Techniques d'Avant Garde )からの資金援助を受け、現在の社名に変更。その後1999年9月にLVMHが同社の株式の50.1%を取得し、現在はLVMH傘下となっている。

2003年まではF1の公式計時を担当していたが、同年限りでF1の公式計時から撤退する一方で、2004年よりインディカー・シリーズの公式計時を担当している。

 

1840年2月15日 - ビール近郊のブラグで[1]創業者のエドウアルト・ホイヤー(Edouar Heuer )が産まれた[2]。
1856年 - 創業者のエドウアルト・ホイヤーがサンティミエの時計メーカーLs.Kierneur&Filsに入社[3]。
1859年 - エドウアルト・ホイヤーがスザンナ・マグダレナ・シェルツと結婚した[4]。
1860年 - エドウアルト・ホイヤーによりスイスのサンティミエでエドウアルト・ホイヤー・ウォッチメーカーズ設立[5]。
1861年 - 創業者の長女ルイズ(ルイーゼ)・ホイヤー(Louise Heuer )が産まれた[6]。
1869年 - ビールに移転した[7]。
1871年 - 創業者の長男シャルル(カール)・ホイヤー(Charles Heuer )が産まれた[8]。
1876年 - ロンドンに支社を設立した。
1878年 - ルイズ・ホイヤーが入社した[9]。時計メーカー向けの宝飾加工を行なっていたフリッツ・ラムベレが事業に参加し、ホイヤー・ラムベレ&カンパニー・ビエンヌ&ロンドンを設立[10]。
1882年 - クロノグラフで特許取得[11]。懐中時計のクロノグラフの製造を開始した[12]。ロンドン支店閉鎖[13]。
1885年 - フリッツ・ラムベレが独立し、エド・ホイヤーに商号変更した[14]。
1892年 - エドウアルト・ホイヤー死去[15]。
1896年 - シャルル・ホイヤーの長男シャルル・ホイヤーJr.が産まれた[16]。
1901年 - シャルル・ホイヤーの次男ウベール(フーベルト)・B・ホイヤー(Hubert B. Heuer )が産まれた[17]。
1916年 - シャルル・ホイヤーJr.が入社。世界初の100分の1秒まで計測可能なストップウオッチ『マイクログラフ』を開発。
1920年 - アントワープオリンピックの公式計時を初めて担当。高級ブランドだったユール・ヤーゲンセンを購入した。
1923年 - シャルル・ホイヤーの次男ウベール・B・ホイヤーが入社[18]。シャルル・ホイヤー死去[19]。
1929年 - ホイヤーのロゴが作成された[20]。
1932年 - ジャック・W. ホイヤーが産まれた[21]。
1953年 - 日本で商標登録した[22]。
1964年 - クロノグラフの製造会社レオニダスと合併、正式な社名はホイヤー=レオニダスとなる[23]。
1967年 - 自動巻クロノグラフ、キャリバー11の開発を始めた[24]。
1969年 - 角型時計としては世界初の防水クロノグラフモナコ』、世界初の自動巻きクロノグラフ『クロノマチック』などを発表[25]。
1971年 - スクーデリア・フェラーリのF1公式計時を初めて担当、当時のドライバーはクレイ・レガツォーニとジョー・シフェール[26]。スティーブ・マックイーンが映画栄光のル・マン中で『モナコ』を着用し、オーバーオールにホイヤーのロゴをつけて出演した[27]。スイススキー連盟と契約を締結、スイススキーチームがホイヤーのクロノグラフを使用するようになった[28]。
1974年 - シャルル・ホイヤーJr.死去[29]。
1982年 - ピアジェの傘下に入る。4代目ジャック・W. ホイヤーが社長から退任し、創業者一族による経営は途絶えた。ジャック・W. ホイヤーはその後コンピューター関係の仕事に携わった。
1985年 - ピアジェの傘下から離れ、TAGグループからの資金援助を受けて『ホイヤー』から『タグ・ホイヤー』に社名を変更。
1999年 - LVMHの傘下に入る。
2001年 - CEOジャン・クリストフ・ババンの懇請で、ジャック・ホイヤーが名誉会長に就任。
2004年 - インディカー・シリーズの公式計時を初めて担当。
2013年 - ジャン・クリストフ・ババンがブルガリCEOに就任し、代わってステファン・リンダーがCEOに就任[30]。ジャック・ホイヤーが11月17日(81歳の誕生日の前日)を以て名誉会長を退任[31]。
2016年 - イングランド・プレミアリーグの公式タイムキーパーを担当[32]、同リーグのマンチェスター・ユナイテッドFCと公式タイムキーパー並びにグローバルパートナー契約を結ぶ[33]。Jリーグとのトップパートナー契約も締結し、公式タイムキーパーとなった

 

 

Breitling ブライトリング

ブライトリング(Breitling Montres S.A. )はスイスの腕時計メーカーである。

航空業界とのつながりが強く、コクピットウォッチ、クロノグラフ、ストップウォッチを主力とし、「時計ではなく(航空用)計器である」という理念のもとに、製品はすべてクロノメーター検定に合格したものである[1]。

無着陸世界一周を初めて成功させたブライトリング オービター 3などの航空イベントやイブ・ロッシーら航空関係者を支援する他、自社でも複数の飛行チームを編成している。
 
コスモノートを身につけたスコット・カーペンター
1860年1月26日 - 創業者レオン・ブライトリング(Leon Breitling )がサンティミエ(Saint-Imier )にて産まれる。
1884年 - レオン・ブライトリングが時計工房「G. レオン・ブライトリング」(G.Leon Breitling )を開いた。
1884年 - レオン・ブライトリングに息子ガストン・ブライトリング(Gaston Breitling )が産まれる。
1892年 - ラ・ショー=ド=フォンのモンブリラン(Montbrillant )通りに移転し「レオン G.ブライトリング」(Leon G. Breitling S.A. Montbrillant Watch Manufactory )に改名。
1914年8月14日 - レオン・ブライトリング死去。ガストン・ブライトリングが後を継ぐ。
1915年 - レマニア製の16リーニュ 懐中時計用クロノグラフムーブメントを搭載した腕時計を製造。
1927年7月30日 - ガストン・ブライトリング死去、1932年まで社長不在となる。
1932年 - ガストン・ブライトリングの息子ウィリー・ブライトリング(Willy Breitling )が後を継ぐ。
1939年 - イギリス空軍が大量のコクピットクロックを発注。
1942年 - 対数表記の四則演算用の回転計算尺を付けたクロノグラフ、初代「クロノマット」発売。
1952年 - 航空航法用の回転計算尺を付けたクロノグラフ、初代「ナビタイマー」発売。工場をラ・ショー=ド=フォンに残したまま本部をジュネーヴに移転。
1962年 - マーキュリー計画のミッションMA7でオーロラ7号の乗組員スコット・カーペンター(Scott Carpenter )の私物としてコスモノートが宇宙に行った。
1969年3月3日 - ホイヤー・レオニダス(Heuer-Leonidas 、現タグ・ホイヤー)、ハミルトン・ビューレン(Hamilton-Buren 、現ハミルトン)、デュボア・デプラとの4社共同で腕時計用自動巻クロノグラフキャリバー「キャリバー11」(Caliber 11 )を開発、発表。
1975年 - クロノマットにクォーツモデル発売。
1976年 - ナビタイマーにクォーツモデル発売。
1978年 - ブランドをMontres Sicura SAの経営者、アーネスト・シュナイダー(Ernest Schneider )に引き継ぐ契約を交わす。[2]同年、ナビタイマーに発光ダイオードモデル発表。
1979年 - ウィリー・ブライトリング、会社の閉鎖を決定。8月に閉鎖。同年ウィリー・ブライトリング死去。[3]
1982年 - アーネスト・シュナイダーがブライトリング・ジュネーブBreitling Genève SA)を設立。[4]Montres Sicura SAの本社工場を改装して、ブライトリングの本社とする。[5]
1983年 - Montres Sicura SAがBreitlingを商標として登録。[6]
1984年 - イタリア空軍の要請に基づき、「クロノマット」の新モデルを発表。
1985年 -「エアロ・スペース」、「オールド・ナビタイマー(手巻)」発表。翌年、自動巻きモデルが発表される。
1993年 - Montres Sicura SAの社名をBreitling AGに変更。[7]
1994年 - アーネスト・シュナイダーの息子セオドア・シュナイダーがCEOに就任。
1997年 - クロノグラフ複雑系ムーブメントの製造会社であるKELEKを子会社化。[8]
1996年 - 初代クロノマットのデザインを踏襲した「モンブリラン」発表。
1999年 - 全モデルに搭載されるムーブメントの100%クロノメーター化を宣言。
2000年 - KELEKの社名をBREITLING CHRONOMETRIE SAに変更。(KELEK時代とBREITLING CHRONOMETRIE時代で住所に変更なし。[9][10])
2003年 - ベントレール・マン復帰に際し、パートナー契約締結。Breitling for Bentleyシリーズ発表。コンチネンタルシリーズの内装にブライトリングデザインのアナログ時計が据えられる。
2009年 - ブライトリング初の完全自社開発・自社製造ムーブメント「キャリバー01」を発表。モデルチェンジしたクロノマットに搭載し発売。自社製キャリバーの開発・製造のために工場「クロノメトリー (BREITLING CHRONOMETRIE)」の南側に新工場を増設した。

Birkenstock ビルケンシュトック

ビルケンシュトックは240年以上の歴史があり、世界の靴ブランドトップ5に入るだけではなく、世界で最も有名なドイツブランドの一つでもある。ビルケンシュトックの商品は世界90カ国、5大陸にまたがって販売されている。日本では特にサンダルの知名度が高く、代表的な製品として2本ストラップのサンダルのアリゾナ(Arizona)やクロッグのボストン(Boston)がある。

ビルケンシュトックの製品は足のアーチを考慮した形状のフットベッドを使用し、足にフィットするように作られているのが特徴で、主にサンダルの場合は靴底はコルクなどで作られ、履いているうちに使用者の足形になじむようになっている。足の甲を固定する部分は調整可能なベルト式(ストラップ)になっている場合が多く、デザイン性とともに機能性も重視されている。

日本ではその特徴から「健康サンダル」と呼ばれる(=混同される)ことが多く、またサンダルの割には高価であることから、一部の愛好者を除いて普及しなかった。しかし1990年代に入り、色やデザインのラインナップが増えたことで有名タレントが愛用するようになり、普及が進んだ。

現在では鼻緒型(トング)のサンダルや、木靴型(サボ、クロッグ)のサンダル、またサンダルのノウハウを生かした革靴やブーツも加わっているほか、流行に応じたブーツサンダル風の商品など、毎年新しい商品が発売されている。

2017年7月、日本での公式オンラインショップ「ビルケンシュトック オンライン ショップ」がオープン。

 

1774年 - ヨハン・アダム・ビルケンシュトック(Johann Adam Birkenstock)が、ヘッセン州ランゲン・ベルクハイム市の教会の公文書に「臣民の靴職人」として登録される。 
1896年 - ヨハンの孫で、シューマイスターであるコンラート・ビルケンシュトック(Konrad Birkenstock)は、シューズメーカーがカスタムシューズの製造に使用する最初の輪郭のインソールを開発。フランクフルトに2軒の靴専門店をオープンし、初めて柔軟性のあるフットベッド(インソール)の製造および販売を始める。
1925年 - コンラート・ビルケンシュトックは、ヘッセン州フリードベルクの大規模な工場を買収して同社を拡大。第二次世界大戦(1939-1945)の後、ビルケンシュトックのサンダルは、整形外科の支援のために帰還兵士の間で人気があった。
1963年 – カール・ビルケンシュトック(Karl Birkenstock)はこれらのインサートを靴に開発し、ビルケンシュトックサンダルのオリジナルプロトタイプを製作。 マドリードという柔軟な深みのあるフットベッドが取り付けられた医療用サンダルを発表し、コンフォートシューズ分野の基礎を確立する。フレキシブルなフットベッドで最初のスポーツサンダルを発表し、体操選手の間でアイコンとなった。

 

Gosha Rubchinskiy ゴーシャ ラブチンスキー

ゴーシャ ラブチンスキー(Gosha Rubchinskiy)はロシアのファッションブランド。新進気鋭のファッションブランドとして注目されている。

コム デ ギャルソンの川久保玲に認められ、日本では、ドーバー ストリート マーケット ギンザなどで取り扱いがある。アイテムはスケータースタイルをベースにしたものが多く、カンペール、ヴァンズ(VANS)やアディダスとのコラボアイテムも展開したことがある。

創業者はゴーシャ・ラブチンスキー(Gosha Rubchinskiy)。1984年、ロシア・モスクワ生まれ。1996年より2001年までモスクワのアートスクールで学ぶ。2003年にモスクワのデザイン&テクノロジーカレッジを卒業。卒業後は、映画・雑誌などのスタイリストとしてロシアで活躍した。2015年春夏シーズン、パリコレクションにデビュー。

 
2018年春夏・2018年秋冬コレクションにて、バーバリーとコラボレーション。8体のウェアが発表され、2018年1月以降バーバリー直営店数店舗で発売された。

しかし2018年秋冬コレクションを最後に、ゴーシャ ラブチンスキーとしての活動を休止。写真やビデオ、映画、パフォーマンスそして音楽などの表現手段を通じ、アート・プロジェクトの一環としてコレクションをデザインしていく方向へ。GR ユニフォーマ(GR UNIFORMA)というプロジェクトを発足させ、2019年3月に全世界のドーバー ストリート マーケットにてアイテムを発売。

2019年、ディーゼルによる、新世代の革新的デザイナーを招聘して、彼らがデザインしたカプセルコレクションを世界各国の一部の店舗で販売するプロジェクト「ディーゼル レッドタグ(DIESEL RED TAG)」の新デザイナーにゴーシャ・ラブチンスキーを迎える。

OMEGA オメガ

オメガ(OMEGA、Ω)は、世界的に有名なスイスの高級腕時計メーカーである。現在はスウォッチ・グループに属している。

 

1848年6月 - 23歳のルイ・ブラン(Louis Brandt )がラ・ショー=ド=フォンにて懐中時計の組み立て工房を開いた。
1877年 - ルイ・ブランの息子ルイ=ポール・ブラン(Louis-Paul Brandt )が"Louis Brandt & Fils"設立。
1879年 - ルイ・ブランが死去、セザール・ブラン(César Brandt )が経営に参加した。
1882年 - 本社を現在地のビールに移転。
1894年 - 有名なキャリバー「オメガ」を製作、後にこれをメーカー名とした。
1903年 - ルイ=ポールとセザールが亡くなるとポール=エミーユ・ブラン(Paul-Emile Brandt )が後を継いだ。
1930年 - ティソ等とSSIHグループを結成する。
1965年 - 「スピードマスター」がアメリカ航空宇宙局の公式腕時計として採用され、その耐久性の高さを世に知らしめた。
1980年 - 日本企業のセイコーによる買収騒動が持ち上がりスイスの国会で騒動と成る
1983年 - ASUAGグループ(ロンジン等)と合併し、スウォッチグループの前身であるSMHグループを結成する。
1999年 - 独立時計師のジョージ・ダニエルズが開発した「コーアクシャル」と呼ばれる新機構を採用し、腕時計界に衝撃を与えた。機械式時計の心臓部である調速機構との動力伝達を果たす、脱進機機構(アンクル爪、ガンギ歯)における摩擦を大幅に低減し、約10年間オーバーホールなしでも精度を保つことができる。

Rolex ロレックス

ロレックス(Rolex)は、スイスの腕時計メーカーである。1905年にドイツ人のハンス・ウィルスドルフがロンドンで創業した。

 

現在は「ウォッチ」に分類される腕時計を主たる商品としている(時計業界では、腕時計や懐中時計を「ウォッチ」、置時計や壁時計などを「クロック」としている)。全ての部品を自社製造しているマニュファクチュールであり、なおかつその大部分でクロノメーター認定を受けている[2]。

20世紀初頭に時計商社としてイギリスで創業したが、当時は時計関税が高額だったため以後漸次スイスに拠点を移し、その過程でメーカー化した。懐中時計が主流であった当時、早くから腕時計の利便性に着目し[3]、別会社である「オイスター社」が開発し、それまでの腕時計と比較して防水性が格段に高い「オイスターケース」を実用化、自動巻き機構「パーペチュアル機構」や日付が午前零時頃に一瞬で切り替わる「デイトジャスト機構」を発明、腕時計で初めてクロノメーターの認定を受けた。

 

ロレックス自身が正式に明らかにしておらず不明な部分が多々ある。一般に知られるのは以下の通りである。

ウィルスドルフ&デイビス→ロレックス・ジュネーヴ編集
1881年3月22日 - 創業者ハンス・ウィルスドルフ (Hans Wilsdorf) がドイツのバイエルン州クルムバッハに誕生。
1900年 - ハンス・ウィルスドルフがスイスのラ・ショー゠ド゠フォンにあるクリオ・コンテンに入社、イギリスへ時計を輸出する仕事に就いた。
1903年 - ハンス・ウィルスドルフがイギリスのロンドンに移った[4]。
1905年 - ロンドンのハットンガーデン86番地に義兄弟デイビスとともにウィルスドルフ&デイビスを設立、当初は時計商社であり、ジャン・エグラーの機械を輸入して時計を製造販売した。
1907年 - スイスのラ・ショー゠ド゠フォン、レオポルド通りロバート9番地に事務所を開設。
1915年11月15日 - ウィルスドルフがドイツ語の名称であり1914年に始まった第一次世界大戦の影響からイギリス向けの輸出に支障があるためロレックス・ウォッチカンパニー'に社名変更した。
1920年1月27日 - スイスのジュネーヴ、マルシェ通り18番地にモントレ・ロレックス(Montres Rolex S.A.) 設立。
1931年 - 技術部長のエミール・ボレが自動巻のパーペチュアル機構を発明。
1933年 - パーペチュアル機構の特許を取得。
1960年 - ハンス・ウィルスドルフ死去。
ジャン・エグラー→ロレックス・ビール編集
1878年 - 創業者ジャン・エグラー (Jean Aegler) がスイスのビールに時計製造工房を設立した。
1881年 - ビールのレープベルクに工場を建設しマニュファクチュールとなった。
1891年 - ジャン・エグラーが死去し、妻のマリア・エグラーが跡を継ぎ、ジャンの子オットー・エグラーとヘルマン・エグラー兄弟が輔佐した。
1896年 - ヘルマン・エグラーがアンクル式脱進機を採用した小型エボーシュを作成した。
1902年 - アンクル式脱進機を搭載した女性用腕時計の量産を開始した。
1910年3月22日 - 腕時計として世界で初めてスイス時計製造協会のクロノメーター認定に合格。
1912年 - イギリス植民地への輸出業務をビールに移転。ジャン・エグラーがロレックス・ウォッチ・エグラーSA (Rolex Watch Co Aegler S.A.) に社名変更した。
1915年11月15日 - エグラーSA・ロレックス・ウォッチカンパニーに社名を変更した。
1914年 - 本社をスイスのビールに移転した。
1926年 - グリュエンへのムーブメント供給を始めた。
1936年 - マニュファクチュール・デ・モントレ・ロレックス・エグラーに社名を変更し、ロレックス向けの専業となった。エミール・ボレが経営に参画した。
1944年 - ヘルマン・エグラーが死去し、ヘルマン・エグラーの姪エマ・ローザの長男エミール・ボレが跡を継いだ。
1963年 - ロレックス・ビールとなった。
1967年 - エミール・ボレが死去し、子のハリー・ボレが跡を継いだ。現在でもボレ家が経営し、ベルン州立銀行が信託を受けて監督している。
1972年 - グリュエンの工場を買収した。
ロレックス・ルロクル編集
1968年 - ロレックス・ジュネーヴとロレックス・ビールが共同で設立した。
ロレックス全般編集
1908年7月2日 - 欧州のどこの国の言葉で読んでも同じ発音になるように考えられた造語「ロレックス」をラ・ショー゠ド゠フォンで商標登録。
1926年 - 王冠のトレードマークを使い始める。
1926年10月28日 - オイスターケースの特許を申請。
1927年 - この年からダイアル、ケース、ムーブメントの全てにロレックスの銘が入る。メルセデス・グライツが遠泳でドーバー海峡を横断、その際ロレックスオイスターを使用し世界の注目を集めた。
1927年9月21日 - 捻じ込み式竜頭の特許を取得。
1943年 - この頃チュードルブランドが登場する。
1945年 - デイトジャスト機構の特許を取得。デイトジャストとデイトを発売。
1953年 - エクスプローラー(I)発売。サブマリーナー発売。
1954年 - GMTマスター発売。
1960年1月23日 - 特殊モデルがアメリカ海軍の深海潜水艇バチスカーフ、トリエステの外側に取り付けられ、世界一深いマリアナ海溝チャレンジャー海淵最深部に到達した。
1961年 - コスモグラフ・デイトナ発売。
1971年 - シードウェラー発売。エクスプローラーII発売。
1972年 - オイスタークォーツ発売。
1983年 - GMTマスターII発売。
1992年 - ヨットマスター発売。
2008年 - ディープシー発売。デイデイトII発売。
2009年 - デイトジャストII発売。
2009年 -ディープシーの「DEEP SEA」表記が商標権侵害に当たるとエルジンに提訴され、敗訴。
2012年 - スカイドゥエラー発売。
2013年 - F1の公式計時を開始。