元ユニクロ店員のブログ

元ユニクロ店員のファッションブログです

HARE ハレ

ハレ(HARE)は、株式会社アダストリアが運営するファッションブランド。

 

東京発のストリートスタイルをベースに、プレッピーカジュアル (Preppy) やスポーツMIXを、モードやアートなど様々なエッセンスを加えつつ、シャープなスタイルで提案している。

現在、「値段が手頃で、オシャレ・着まわしがきく・品位がある」点を謳い文句にしているブランドであり、かつファスト系のブランドなので、自社でデザイナーを抱え込んでいない。

価格は、ボトムズが7千円~1万3千円、トップスインナーが3千円~1万円、アウターが1万2千円~3万円。その他、バッグやシューズ・小物(ベルトや帽子)・アクセサリーまで、トータルコーディネートできる商品ラインアップとなっている[1]。

メインターゲットは20~30歳代の男性だが、実際は、10代後半(高校生・大学生)から30歳代後半までの幅広い男性に支持されている。ここ数年の「キレイめファッション」人気に後押しされ、また、HAREを着こなしている人を俗に「ハレラー」と呼ばれるにまで、ブランドが成長してきている。

2001年に心斎橋西側界隈堀江店(大阪)をオープンさせて、2015年6月6日現在、全国のファッションビルや路面に、47店舗を構えている。

2009年4月24日、ポイント社(現アダストリア社)の人気ブランドを複数集積した、日本でも珍しい店舗業態「コレクトポイント原宿店」(東京都渋谷区神宮前6‐12‐20)に出店。さらに2010年春に「コレクトポイント2号店」を大阪心斎橋(心斎橋筋商店街路面)に出店。

2011年春、大阪梅田大丸、神戸三宮(メンズ・レディス複合店)、広島で新規出店。

また、女性購入者層も多いことなどから、レディスHAREを2010年9月11日にオープンさせた。レディスHAREのターゲットは、25歳~35歳の女性。コンセプトは「アクティブガール」。 自分の気分、年齢に併せて色々な服を経験した好奇心旺盛な女性が持つこだわりとしなやかさを独自のアイテムに表現することで、ラブリーではない「シャープな女らしさ」を提案。

FOREVER 21 フォーエバー トゥエンティーワン

FOREVER 21(フォーエバー トゥエンティーワン)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスに拠点を置く、ファストファッションストアチェーン。アメリカ合衆国内のほか、世界10ヶ国に460店舗(2009年現在)を置く[1]。日本での販売業者名はForever21 Japan Trading Company, LLC.(フォーエバー21ジャパントレーディングカンパニー合同会社)。

 

韓国系アメリカ人のドン・チャンにより1984年、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスに設立。創立当時の名称は「Fashion 21(ファッション・トゥエンティーワン)」で、ロサンゼルス郡内に住む韓国系移民の若者向けに作られたブランドであった。1989年には州内のショッピングモール内に出店、1995年にはフロリダ州にチェーン店を出店し、初めてカリフォルニア州外に進出する。

2001年よりForever 21の大型店舗である「XXI Forever」を全米各地で出店、以降は国内のファッションストアも買収するなど規模を拡大した後、2006年にブランドショップ「Heritage 1981」を新設、2008年より会員制のオンラインショッピングサービスを開始した。

ドン・チャンと彼の妻ジン・スク・チャンが韓国を離れアメリカにやってきたのは1981年のことだ。

軍事クーデターにより全斗煥政権が誕生した韓国は戒厳令が敷かれ、混乱の時代を迎えていた。

「あの頃の韓国の暮らしは大変なものでした。信じられる未来など、ありはしませんでした」とドン・チャンはフォーブスの取材に応えた。

現 在57歳のドン・チャンと60歳のジン・スクはファストファッションの老舗「フォーエバー21」を経営。

4万3,000名の従業員(うち1万1,000名 はフルタイムの女性社員)を抱え、48ヶ国で790軒の店を展開する。

年間売上は44億ドル(約4,400億円)に達し、二人は今年米国で最もリッチな 人々が名を連ねる「フォーブス400」の222位にランクインした。夫婦の資産額は30億ドル(約3,000億円)と算定されている。

ZARA ザラ

ザラ (ZARA) は、スペイン・ガリシア州のアパレルメーカーであるインディテックスが展開するファッションブランド。ガリシア語とスペイン語ではサラ ['θaɾa] と濁らずに読む。

 

ファッション性に優れた服を手ごろな価格で提供することで成功した[1]、いわゆるファストファッションブランドのひとつ。子供服から婦人服・紳士服まで幅広く展開する。アメリカ・ヨーロッパ・アジアに進出しており、特にヨーロッパでの人気が高い。

200人以上のデザイナーが1シーズンに3万以上のモデルをデザインしている[2]。企画・デザインから製造・販売までを自社で担い、卸売業者を介さないことで、コストダウンや在庫管理の円滑化、消費者ニーズへの素早い対応などを可能にした[1][2]。このような戦略を可能にした理由のひとつとして、デルやトヨタ自動車と同様のサプライチェーン方式を採用している点がある。ザラでは2週間単位で新商品が投入され、店頭には常に新しい商品が並べられている[2]。それまでのスペインでは百貨店などの大型店よりも専門店が占める割合が大きく、多数の店舗を展開するザラは革新的な存在だった[1]。生産拠点はスペイン、ポルトガル中華人民共和国、インド、トルコに分散しており、生産された商品はいったんスペインの物流センターに集められた後、ヨーロッパの国に対しては24時間以内に、アメリカ・アジアの国に対しては48時間以内に届けることができる[2]。

パリのオペラ座やニューヨークのソーホー地区など世界の主要都市の繁華街に大型店を展開し、店舗そのものを広告塔とすることで広告宣伝費を抑える戦略を採ってきた[1][2]が、現在では市場に合わせて一定の広告宣伝も行っている[1]。

 

1975年にスペインのア・コルーニャに1号店を開店[3]。1988年にポルトガルに店舗を開店させて国外進出を開始すると、1989年にはニューヨークとパリにも店を構えた[2]。2005年にはスペインの全企業中第21位の売上高をあげるまでに成長した[3]。2008年時点で世界60か国で展開しており、その大半は直営店だった[3]。2008年にはリーマン・ショックの影響で世界的に大不況に見舞われたが、2009年9月期の総売上高は110億8,400万ユーロであり、前年比8%の増収を記録した[2]。ザラ単独では、2013年4月末時点で87か国に1,991店舗を展開している[2]。

H&M エイチ・アンド・エム

H&M(エイチ・アンド・エム)は、スウェーデンのアパレルメーカーエイチ・アンド・エム ヘネス・アンド・マウリッツ(典: H & M Hennes & Mauritz AB、発音:ホー・オック・エム ヘンネス・オック・マウリッツ、日本ではヘネス・アンド・モーリッツとも表記される)が展開するファッションブランド。低価格かつファッション性のある衣料品を扱う、いわゆるファストファッションの一翼を担う企業のひとつである[1][2]。

 

1947年にスウェーデン中部の都市ヴェステロースで創立。この時は婦人服を専門にしており、社名も「Hennes」(スウェーデン語で「彼女のもの」の意)であった。1968年にストックホルムの狩猟用品店「Mauritz Widforss」を買収した際、この店の在庫の中に紳士服のストックがあったことから、これ以降紳士服も扱うことになり、店名も「Hennes & Mauritz」となった。その後「H&M」の略称を正式なブランド名とし、現在に至る。

G.U ジーユー

株式会社ジーユー(G.U. CO. ,LTD.)は、東京都に本社を置く、「GU」ブランドで衣料品の製造・販売を行う企業である。ファーストリテイリングの完全子会社[2]。2011年8月までの旧商号は株式会社GOVリテイリング。2013年3月にブランド表記を「g.u.」から「GU」へ変更した。

 

ジーユー (g.u.) は、元々はファーストリテイリング(FR社)とダイエーの業務提携により、FR社の主力ブランドであるユニクロのノウハウを生かしつつ、ユニクロより低価格なカジュアル衣料品を販売する新ブランドとして2006年に立ち上げられたものである[広報 1]。ブランド名は「もっと『自由』に着よう」というコンセプトに由来するもので、20代後半から30代前半の若いファミリーをターゲットとし、ユニクロの7割程度の価格帯を設定しつつファンション性を重視した店舗構成を目指した[広報 2]。同年10月13日にダイエー南行徳店(千葉県市川市)に1号店をオープン、1年間で50店舗の出店を強行するも、当初はユニクロのようなSPA業態ではなくOEM商品が中心だったこともあり「寄せ集め感」が払拭できずに苦戦。2007年8月期の売上高は計画の3分の1にとどまり戦略の練り直しを迫られていた[3]。

3社の事業統合、g.u.事業の復調
一方、FR社は新たなファッション事業として靴の小売りに乗り出しており、かつて名古屋市を拠点にロードサイド店舗による靴小売りチェーン「FOOTPARK」を展開していた株式会社ワンゾーン(旧社名・靴のマルトミ)と、大阪市を拠点に「vjw;」「CANDISH」「COO ICI」などのブランド名で婦人靴小売業を手がけていた株式会社ビューカンパニーの2社をM&Aにより傘下に収めていたが、両社とも苦戦が続いていたことから、この2社と株式会社ジーユー(初代)の3社の事業統合によって、2008年に「株式会社GOVリテイリング」が誕生した(法人格はワンゾーンを承継)。社名として使用されていた「GOV」は、統合した3社「g.u.」・「ONE ZONE」・「VIEW COMPANY」の頭文字である。

経営統合と相前後して、ジーユー事業についてはファッション性の追求よりも、ベーシック商品の低価格化を徹底する方向に方針転換。価格帯について全商品の8割をユニクロの半値以下に設定し、SPA化を進めた上で、目玉商品として1本990円のジーンズを発表[広報 3]し、これがヒットして業績を牽引する形となり、2009年8月期決算では黒字化を達成した[3]。

g.u.専業に
経営統合後も、それぞれのブランド名を残したまま運営が続けられていたが(Webサイトもブランド別となっており、GOVリテイリングのカンパニーサイトは存在しなかった)、ブランド数が最大で10以上にも達したため効率が悪く、販売不振に陥っていた。特に靴小売り事業については十分な業績が上げられていなかったことから抜本的なてこ入れを図るべく、ユニクロの名を冠したカジュアルシューズブランドの「UNIQLO SHOES」(ユニクロシューズ)を立ち上げ、さらに旧・ビューカンパニーの「CANDISH」をファッションシューズブランドに位置づけ、靴事業を両ブランドに集約する方針を示した。さらに2010年4月1日には、会社分割によって靴事業をユニクロに譲渡。GOVリテイリングはカジュアルファッションの「g.u.」専業となり、同社の店舗は承継対象外店舗も含め全て閉店もしくは「g.u.」店舗に転換した。

ユニクロに承継された靴小売事業は、専門店の店舗ブランドは「CANDISH」に統一、商品ブランドも「UNIQLO SHOES」「CANDISH」の2ブランド体制に再編され、「FOOTPARK」など残りのブランドは廃止された[広報 4]。しかし目標となる売り上げを達成できず、業績の回復が見込めないことから、ファーストリテイリングの2011年8月期第1四半期の決算発表において「CANDISH」全90店舗の閉店を発表し[4]、「UNIQLO SHOES」もラインナップ数を絞り込んでおり、靴小売事業については規模を大幅に縮小している。

その一方で、g.u.事業については「低価格のトレンド商品を短いサイクルで販売する」というファストファッションのスタイルが市場に定着し、ブランド全体にトレンド要素を加えたアイテムを拡大したこともあって好調を維持。現在はしまむらと並んで「低価格ファストファッションブランド」としての評価を高めつつある[5]。出店形態も郊外型から都市型にシフトしつつあり、2010年には初の旗艦店を大阪・心斎橋にオープン、以後、2011年に池袋、2012年に銀座にそれぞれ旗艦店をオープンさせている。これと相前後して、2011年9月1日に、社名を現在の「株式会社ジーユー」(2代目)に変更している。

g.u.からGUへ
2013年3月5日に「国内向けのファミリー向けブランドから、世界向けのファッションブランドを目指していく」との考えからロゴマークを一新。表記は「g.u.」から「GU」へと変更になり、ロゴマークは青地に黄色の文字のデザインとなった。これは「UNIQLO」の姉妹ブランドとして相並ぶことを意識したもので、佐藤可士和によってデザインされた[6]。

UNIQLO ユニクロ

株式会社ユニクロ(英語: UNIQLO CO., LTD)は、「UNIQLOユニクロ)」の店・ブランド名で、実用(カジュアル)衣料品の生産販売を一括して展開する日本の会社である。

 

1949年3月、柳井等が兄・柳井政雄より任されていた小郡商事の繊維・洋服部門を、個人営業の紳士服専門店「メンズショップ小郡商事(メンズショップOS)」として山口県宇部市に開店。

1984年6月2日、それまで山口県宇部市で「メンズショップOS」(1992年4月までに全店閉店またはユニクロに改装)の名称で男性向け衣料品を取り扱っていた小郡商事が、広島市中区袋町にユニセックスカジュアル衣料品店「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」(UNIQUE CLOTHING WAREHOUSE)を開店[1][2]。なお、この1号店は現存しない[3]。

同年9月に柳井正代表取締役社長に就任。

ユニクロの呼称はこの店舗名の略称が元になっているが、当初略称の英文綴りはそのまま「UNI-CLO」であった。1988年、香港に現地法人を設立した際、会社登記の書類に略称の「UNI-CLO」を「UNI-QLO」と書き間違えられてしまったのだが、そのスペルを柳井が気に入り、そのまま英文綴りを「UNI-QLO」に変更した商標が採用されることとなった。また、包装紙やテープ等に「U296」と表記をしている時期もあった。

広島への開店当初は地元(広島県福山市)出身の小林克也を起用し、広島ローカルでCMを打った。開店以来、ワインレッドをシンボルカラーとした白抜きのロゴタイプを用いているが、かつてはこれと別に手を繋いだ男女のシルエットをモチーフとしたシンボルマークが存在した。1991年9月、社名を小郡商事からファーストリテイリングに変更。

利益拡大と海外進出
元々は、ナショナルブランド衣料品の小売店であった。アメリカン・スタイルの倉庫風の建物内にクラシックな映画ポスターや有名スターのポートレイトを展示した特徴的な店舗(右記写真の店舗例2の姪浜店参照)を全国に展開し、またいち早く中国の優良な工場と提携し、低価格で調達するモデルを構築。

1997年頃から、プライベートブランド商品の取扱比率を高め、アメリカの衣料品小売店、GAP(ギャップ)をモデルとした製造型小売業 (SPA)への事業転換を進め、経済の状況にマッチした低価格・高品質商品の展開、また広告代理店と提携、クリエイティブディレクターにタナカノリユキを招き明確なメッセージを発信したPRなど、戦略を次々と刷新。そして1998年、2 - 3万枚売ればヒットと言われるフリースを目標200万枚、1999年には850万枚でいずれも完売。2000年秋冬にはCMモデルに松任谷由実らを起用し51色に展開、2,600万枚という驚異的セールスを樹立した。この現象は「フリース旋風」と評され、衣料品流通業の革命を席巻し社会現象を起こす。2001年8月期には売上、経常利益ともピークに達し、イギリスへ進出した。

業績の低迷、買収による業績回復
2002年頃から日本では在庫が急増、英国での業績も振るわず2002年、2003年8月期と利益が大きく落ちこむ。その後、「theory(セオリー)」、「ナショナルスタンダード」といった国内外のブランドの買収、ファッション雑誌との共同企画(コラボレーション)商品の開発、藤原紀香など有名タレントの起用、外部デザイナーなどとの提携などのテコ入れが行われ、2004年度には業績が上向いた(現在、ロンドン支店の業績は黒字に転じている)。東アジアでは、2002年9月に中国上海市に出店し、2005年9月には香港に、そしてロッテとの合弁で韓国ソウル市にも出店した。

2005年には雑誌「relax」(マガジンハウス)との共同で、東京・北青山に期間限定の「セレクロ」(セレクトショップあるいはセレブの位置付け)が開設された。また、大阪心斎橋に平均価格帯を引き上げた「ユニクロプラス」も開店したが、その後プラスの名称をはずし、現在は銀座店を中心に7店舗の大型店を運営。2006年11月には、ニューヨークのソーホーにグローバル旗艦店を出店する他、上海にもアジア旗艦店を出店し、世界進出を加速する(後述)。

2005年11月に、ファーストリテイリングは衣料品の製造・小売に関する営業を会社分割(吸収分割)によりゴルフ練習場を経営していた完全子会社のサンロード株式会社(当社)に承継させ、持株会社制に移行した。同日、サンロードは社名をユニクロに変更した。

2000年以降の展開状況
ユニクロ中国三里屯店
2014年9月にオープンしたサウスコースト・プラザ店(カリフォルニア州オレンジ郡)
2013年8月末現在、日本国内で854店舗、海外で441店舗、合計1,295店舗を展開している(海外店舗は、現地法人による運営)。日本国内では郊外型店舗やビルテナントとしての出店の他、1,000坪クラスの超大型店舗やユニクロを核としたショッピングセンター「ミーナ」などを展開している。日本国外では東アジアを中心に展開しており、国別では中国(225店舗)が最多で、韓国(105店舗)、台湾(37店舗)が続く。

日本国内では、ユニクロ原宿店を改装したT-シャツ専門店「UT STORE HARAJUKU.」が2007年4月28日に新たにオープンした(2012年に銀座店に統合)。2009年3月9日には春のパーカキャンペーンに合わせて、グラフィティマガジンズの雑誌「東京グラフィティ」とのコラボレーション雑誌「TOKYO FASHION MAP with UNIQLO」を全国で発売した。

2020年までに国内の店舗を1,000店体制に拡大する予定であり、このうち売り場面積約3,300m2級の「超大型店」を札幌市、仙台市名古屋市広島市北九州市、福岡市、熊本市鹿児島市の主要8都市にて新たに開業する方針を示している[4]。

2001年のイギリスを皮切りに始まった海外出店は、中国、香港、台湾、韓国、シンガポール、マレーシア、タイ、フィリピン、インドネシア、オーストラリア、カナダ、ドイツ、ベルギー、スペイン、イギリス、アメリカ、フランス、ロシア[5]の18か国で展開しており、グローバル化が進んでいる。海外ユニクロ事業は、2006年においては香港を除きほとんど赤字であったが、2008年8月期から黒字化し、2010年8月期の売上高は前年比倍増の730億円、営業利益は前年比4倍の65億円を見込んでいる。会社組織としてもグローバル化を進めており、社内公用語母語が異なる人が対象の資料や会議)を英語とすることとして、本社社員と店長の約3000人に対して業務として「TOEIC700点以上」を義務付けている[6]。

2006年11月のニューヨーク旗艦店オープンの際、店舗のクリエイティブディレクションを担当した佐藤可士和により、ユニクロの新たなロゴデザインが作成された。新ロゴは英語表記とカタカナ表記によるもので、従来のワインレッドから赤を基調としたものとなり、2006年以降海外の新店舗を中心に展開、国内では2009年頃からCMや広告、新規店舗・リニューアル店舗でのロゴ表記などに用いられている(従前からの店舗には、引き続き以前のデザインを使用している)。

2010年7月、バングラデシュグラミン銀行と10月に同国で合弁会社を設立すると発表した[7]。合弁会社「グラミン ユニクロ」をバングラデシュの首都ダッカに設立し、3年後に2,000人の雇用を目指すという。

アメリカ合衆国では、2013年秋に10店がカリフォルニア州コネチカット州ニュージャージー州ニューヨーク州で立て続けにオープンし、合計17店舗となった[8]。2014年にはフィラデルフィアやボストンなどでも新規開店が続き[9]、同9月5日にロサンゼルス地域(南カリフォルニア)の第1号店としてオープンしたサウスコースト・プラザ店(カリフォルニア州コスタメサ)をもって、合計25号店舗に達した[10]。ロサンゼルス地域では、旗艦店となるビバリー・センター店を含む4店舗が2015年春までにさらにオープンする予定である[10][11]。すでに7店舗が営業している北カリフォルニアでも、2014年末までに2店舗が追加される予定である[11]。また、2015年秋にはシカゴ店もオープンする見込みである[9]。

Carla Bruni カーラ・ブルーニ

カーラ・ブルーニサルコジ(Carla Bruni-Sarkozy または Carla Sarkozy, 1967年12月23日 - )は、イタリア・トリノ出身の女性ファッションモデル、歌手。ニコラ・サルコジ仏大統領夫人。身長176cm。イタリア語読みでの本名はカルラ・ブルーニ・テデスキ(Carla Bruni Tedeschi)。モデル活動をする際には結婚前の名前である「カーラ・ブルーニ」を用いる。

 

1967年、イタリア・トリノにおいて、作曲家アルベルト・ブルーニ=テデスキ (fr:Alberto Bruni Tedeschi) (1915年 - 1996年2月17日)を父、仏伊ハーフのピアニストのマリサ・ボリーニ (fr:Marisa Borini) (1930年 - )を母とする家庭に、カーラ・ジルベルト・ブルーニ・テデスキとして生まれる。ただし、アルベルトは法的な父であり血のつながりはない(後述)。姉は女優で映画監督のヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(1964年11月16日 - )。写真家の兄ヴィルジニオ(1959年 - 2006年7月4日)はエイズのため亡くなっている[1]。

祖父(アルベルトの父)ヴィルジニオ・ブルーニ・テデスキは、北イタリアでCEAT社 (CEAT Limited) を創業し、イタリア第2位のシェアを誇るタイヤメーカーに育て上げた有能なユダヤ人実業家であった。しかしアルベルトは芸術家肌で美術品の収集に余念が無く、父から経営を引き継いだ会社を倒産させてしまった(会社は1970年代初頭にピレリ社に買収された)。一族はまだ多額の資産を所有していたが、当時左翼テロ組織「赤い旅団」による富裕層の身代金目当ての誘拐が相次いでいたことから、1975年に安全のため家族でフランスへ移住した[2]。カーラは7歳からフランスで育ち、スイスのボーディングスクール(寄宿制学校)に入学。パリ16区の名門校リセ・ジャンソン=ドゥ=サイイ(フランス語版)、そしてパリ第一大学(パンテオン・ソルボンヌ)にもそれぞれ通った。

2008年にカーラが『ヴァニティ・フェア』誌に語ったところによると、カーラの生物学的な父親は、当時クラシック・ギターの奏者であった Maurizio Remmert(1943年 - )で、母マリサの13歳年下の恋人であった。Maurizio は、現在ブラジル・サンパウロ在住の実業家である[2]。

1990年代のファッション雑誌では名門貴族の家系と紹介されていたが、これは祖父の再婚相手が名門貴族の女性というだけで、父親もカーラも貴族の血は受け継いでいない。
 
経歴
大学在学中にスカウトされ、1987年にモデルデビュー。1990年代にはスーパーモデルの1人として活躍し、シャネル、ディオールセリーヌなどのモデルを務め、様々な雑誌のカバーを飾った。モデル業は29歳で実質的に引退している[3]