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Patek Philippe パテック・フィリップ

パテック・フィリップ(Patek Philippe)とは、スイスの高級時計メーカーである。1839年に2人のポーランド人アントニ・パテックとフランチシェック・チャペックによって創業された。

ヴァシュロン・コンスタンタン、オーデマ・ピゲとともに世界三大高級時計メーカーの一つとして数えられることが多い[1]。その中でもパテック・フィリップは頭一つ抜け出た存在とされている[1]。

過去にはカルティエティファニー、ギュブラン(Guberin )、ゴンドーロ・ラブリオ等宝石店向けに製品を納入していた。

かつては多くの製品がジュネーヴシールの認証を受けていたが、現在は自社独自の認証マークである「パテック・フィリップ・シール」に切り替わった[1][注釈 1]。

世界一高価な腕時計を販売するマニュファクチュールとしても知られている。

グランドコンプリケーションはパテックフィリップの中でも最高峰のモデルである。

 

1811年4月4日 - 創業者フランティシェック・チャペック (František Čapek ) 、ボヘミアの現在はヤロミェジ (Jaroměř ) の一部であるセモニツェ (Semonice ) 村に産まれた。後に時計職人としてワルシャワに移住し、フランチシェック・チャペック (Franciszek Czapek ) とポーランド風に改名。
1812年7月12日 - 創業者アントニ・パテック(Antoni Patek ) 、「プラヴジツ (Prawdzic ) 紋章」を持つポーランド貴族(シュラフタ)の子としてポーランド、ルブリン市近郊のピャスキ・ルテルスキェ (Piaski Luterskie ) に産まれた。
1821年頃 - パテック、10歳の時両親とともにワルシャワへ移った。
1828年 - パテック、16歳でポーランド陸軍に入隊、「第1騎馬ライフル連隊」に配属。
1830年 - パテックとチャペック、ポーランド人によるロシア支配に対する反乱11月蜂起に参加した。パテックは、ロシア軍との戦闘における活躍により少尉に昇進、「8月1日旅団」の副官に昇格。1831年にはその功績が認められポーランド軍最高の栄誉である「ヴィルトゥーティ・ミリターリ勲章」 (Virtuti Militari ) を授与された。
同時期、チャペックはポーランド人の民兵組織である「ポーランド国民衛兵」の兵士としてワルシャワでロシア軍を相手に戦った。

1832年 - パテック、ロシア軍が制圧したポーランドから脱出。このときポーランド軍がその脱出ルート上に設置した5箇所の集結地点のうちの1つ、ミュンヘン近郊のバンベルクにあったポーランド軍陣地の司令官に任命された。
フランスへ亡命後しばらくは亡命ポーランド軍将校としてフランス側につき各地を転戦した。その後、軍を退役しアミアンに定住し植字工となった。

創業期編集
1835年頃 - パテックとチャペック、スイスのジュネーヴに移住する。その後、パリへ旅に出て得た経験から高級懐中時計の販売を始めた。
1839年5月1日 - パテックとチャペックは共同で事業を開始することで同意し、同郷であるポーランド人時計製造業者のヴァヴジニェツ・ゴストコフスキ、ヴィンセンティ・ゴストコフスキ、ヴワディワフ・バンドゥルスキの財政援助を得て「Patek, Czapek & Cie」を創業、これより1850年ごろまでポーランドの歴史と文化に関連したデザインの懐中時計をオーダーメイドで製造した。
1843年5月29日 - アントニ・パテック、ジュネーヴ市民となり、アントワーヌ・パテック(Antoine Patek)とフランス風に改名。
1844年 - パテック、自社製品をパリの博覧会に出品するためパリに赴き、ジャン・アドリアン・フィリップ(Jean Adrien Philippe)と出会った。フィリップが発明した「リューズ巻き上げ、時刻合わせ」の機構に感銘を受け、意気投合した。
1845年5月1日 - フィリップが入社、社名を「Patek & Cie」に変更。自社初の懐中ミニッツリピーターを製作。フランツ・リストシャーロット・ブロンテレフ・トルストイが懐中時計を購入。
1845年5月17日 - 創業者チャペック、「Patek & Cie」から去る。その後チャペックはポーランド、フランスで時計を製造したが、1869年頃に会社を清算し、その後の消息は不明。彼の名を冠したブランドは2011年にバーゼルで復興され、2014年にヌーシャテルに移転して2015年から複雑時計の発売を開始している。
名声の確立編集
1849年 - アメリカのティファニーに懐中時計供給を始めた。
1851年1月11日 - 社名を「Patek & Cie」から「Patek & Philippe Cie」に変更。
1851年 - ロンドン万国博覧会に出品、ヴィクトリア女王がリューズ巻上げ・時刻合わせ式の18金ペンダントウォッチを購入。
1854年 - 本社が現在地Quai General Guisanに移った。
1867年6月26日 - ローマ教皇ピウス9世が18金懐中クォーターリピーター[5]を購入。裏蓋には教皇の紋章と両側に月桂樹が七宝で描かれている。
1877年5月1日 - 創業者パテック死去。
1877年 - ピョートル・チャイコフスキールイ15世スタイルの懐中クォーターリピーターを購入。
1878年 - ティファニーアメリカ製工作機械を備えた自社のジュネーブの時計ムーブメント製造工場をパテックフィリップに売却[6](この影響で、この年代近辺では全く同じムーブメントでありながら、Tiffany製の物とPatek製の物が市場に流通している)。
1891年1月 - ジャン・フィリップが経営を息子のジョセフ・エミール・フィリップに譲る。
1894年1月5日 - ジャン・フィリップ死去。
事業の拡大編集
1895年頃 - マリ・キュリーがジュネーヴ芸術協会からペンダントウォッチを授与された。
1907年 - ジョセフ・エミール・フィリップ死去、その息子アドリアン・フィリップが会社の経営を引き継いだ。
1908年 - 現在の本社ビルが完成。
1915年 - アルベルト・アインシュタインが懐中時計を購入。
1927年4月6日 - パッカードの創業者の一人ジェームズ・ウォード・パッカード (James Ward Packard ) に「パッカードウォッチ」を12,815スイスフランで売却。
スターン兄弟による買収編集
1929年 - 世界大恐慌の影響で経営が悪化し、文字盤製造業者のジャン・スターン (Jean Stern ) とシャルル・スターン (Charles Stern ) 兄弟が資本参加した。
1932年6月14日 - スターン兄弟が会社を買収。 現在の社名である「Patek Philippe S.A.」に変更。
アドリアン・フィリップが経営から退き、ジャン・フィスター (Jean Pfister ) が社長に就任。ドレスウォッチの傑作Ref.96を発売。高級腕時計の代名詞となるカラトラバを発売。

1933年1月19日 - ヘンリー・グレーブス・ジュニア (Henry Graves Jr. ) からティファニーを通じて「史上一番複雑な時計」を受注し24機能の複雑時計「グレーブス・ウォッチ」を製作、60,000スイスフランで売却した。
会社の再建編集
1948年 - エレクトロニクス部門設立。
1949年5月15日 - ジャイロマックス・テンプの特許取得。スイス特許番号261431。
1951年12月31日 - ジャイロマックス・テンプの特許取得。スイス特許番号280067。
1956年 - 全電気式クォーツ時計を製作。
1958年 - ジャン・フィスターが退職、シャルル・スターンの息子で1936年以来ニューヨーク支店長だったアンリ・スターンが社長に就任。
1968年 - 「エリプス」シリーズ発売。最初のモデルはRef.3548。
1976年 - ジェラルド・ジェンタデザインによる「ノーチラス」シリーズ発売。最初のモデルはRef.3700/1。
1978年 - アンリ・スターンの息子フィリップ・スターンが社長就任。
1988年 - 「パッカード・ウォッチ」を買い戻した。
機械式時計の復興編集
1989年 - 「キャリバー89」を発表。
1993年 - 「ゴンドーロ」シリーズ発売。最初のモデルはRef.4824。
1999年12月 - サザビーズ・オークションにて「グレーブス・ウォッチ」が1個の時計としては史上最高値の11,002,500ドルで落札された。
2000年10月5日 - 西暦2000年を記念し21機能、パーツ数1118個の複雑時計「スターキャリバー2000」が発表された。ハーフハンター・ケース、ダブル・フェイス・ポケットウォッチ。ケース素材違いの4個が1セットで価格は7,500,000ドル。毎年1セットずつ5セットが製造された。
2002年4月 - アンティコルム・オークションにてルイ・コティエが考案した方式の1949年製ワールドタイムが腕時計としては史上最高値、当時の日本円で約4億8000万円で落札された。
2009年 - フィリップ・スターンの息子ティエリー・スターンが社長に就任。
2010年5月11日 - クリスティーズがスイスのジュネーヴで開いた腕時計のオークションで、1943年にワンオフで製作されたカレンダー・クロノグラフRef.1527が、競売に出された黄金の腕時計として史上最高値、腕時計全体でも歴代2位の約626万スイスフラン(約5億2200万円)で落札された。