元ユニクロ店員のブログ

元ユニクロ店員のファッションブログです

Kate Moss ケイト・モス

ケイト・モス”(Kate Moss)ことキャサリン・アン・モス(Katherine Ann Moss、1974年1月16日[2] - )は、イギリスのファッションモデル。これまでに300冊以上の雑誌の表紙を飾ってきた[3]。多くの広告キャンペーン出演で知られる。パーティーづくしのライフスタイルなども注目の的とされてきた。

 

米誌『フォーブス』の2007年度版「モデル所得番付」で2位[4]。同2008年度版ではハイジ・クラムに次ぎ、アドリアナ・リマを凌いで3位(850万ドル)[5]、2009年度版も同じく3位(900万ドル=約8億円)[6]、2010年度版も同じく3位(1350万ドル=約10億8700万円)[7]、2011年度版ではジゼル・ブンチェンに次ぎ、ナタリア・ヴォディアノヴァを凌いで2位(920万ドル=約7億円)[8]となっている。

雑誌『マキシム』の「1999年のセクシーな女性50」の8位、そして『FHM』の「1995年のセクシーな女性100」で22位となった。2007年3月には、NME賞の最もセクシーな女性部門を受賞[9]。2007年にイギリスの『サンデータイムズ』の「リッチな人物」リストで4,500万ポンドの価値があると推定され、イギリス99位の金持ち女性とされた[10]。2009年の同リストでは4,100万ポンドの自己資本で、イギリス1348位の金持ちと評価されている[11]。

 

ロンドンの旅行代理店の娘として生まれた[12] 。弟(ニック)がいる。13歳のときに両親が離婚。小学校から高校時代にかけて、勉強は不得意であったが、スポーツの成績は優秀であったという[13]。

14歳のときにジャマイカでバカンスをしていた帰り、ニューヨークのJFK国際空港でモデル事務所「ストーム」の創設者にあたる人物からのスカウトを受ける。初仕事は15歳、イギリスの雑誌『ザ・フェイス』の白黒写真の表紙であった。以後、シンディ・クロフォードクラウディア・シファー、ならびにナオミ・キャンベルなどといった、長身と曲線美を有する当時の“スーパーモデル”らと対照的な1990年代の“反スーパーモデル”として活躍。

Jil Sander ジル・サンダー

ヘイドメリー・ジリーン・サンダー(ドイツ語: Heidemarie Jiline Sander, 1943年11月27日 - )、通称ジル・サンダーJil Sander)は、ドイツ出身のファッションデザイナーであり、また本人が立ち上げた世界的ファッションブランドである。

企業としてはジル・サンダーを商号・ブランド名として使用していた。プラダグループなどを経て、2014年以降オンワードホールディングスオンワード樫山)の傘下にあり、企業名としてはオンワードグローバルファッション (OGF) に改称。

ジル・サンダー」は英語発音で、ドイツ語(標準)では、「ハイデマリー・イリーネ“イル”ザンダー」と発音される。

これまで企業としてのジル・サンダーは、ハンブルク、ベルリン、パリ、ミラノ、ロンドン、NY、東京、モスクワ、上海、ソウル、ドバイ、シンガポールバンコクなど、世界各国にブティックを展開している。名門ブランドとして80年代末よりミラノ・コレクションを牽引し続けている。

 

ドイツ北部のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州ヴェッセルブレン出身。ハンブルクのクレフェルト・スクール・オブ・テキスタイル専門学校を卒業して、テキスタイル・エンジニアとして働いた。その後、渡米してカリフォルニア大学に2年間留学した。留学後、ニューヨークの出版社に就職し、「マッコールズ(McCall's)」、「コンスタンス(Constance)」など女性専用の各雑誌のファッション・ジャーナリストとして活躍した。その後、1965年ドイツに帰国、1968年にハンブルクにブティックを開設して自らの会社を立ち上げたが、当初は主に「ソニア・リキエル」などを取り扱う、セレクトショップの形態の店舗であった。

1999年のプラダ系列への統合後、親会社となったプラダと価値観が衝突することがたびたびあり、2000年には一度自社の経営から撤退した。2003年にクリエイティブ・ディレクターの座に復帰したが、その後もプラダとの方向性の不一致から2004年に再度辞任した。これ以降、ジル・サンダーは長らくファッションの表舞台から姿を消したが、2009年3月、ユニクロを運営する日本のファーストリテイリング社がジル・サンダーが代表を務めるコンサルティング会社との間にデザインコンサルティング契約をしたと発表[1]。ユニクロの高価格ラインである「+J」のデザインと、ユニクロの商品全体の監修を行った。2011年6月23日、デザインコンサルティング契約を終了すると発表され、「+J」も2011年秋冬シーズンをもって終了した[2]。

2012年、ジル・サンダー社はラフ・シモンズの後任として、ジル・サンダーがクリエイティブ・ディレクターに復帰すると発表。2013年S/Sシーズンより、再びデザインを手掛ける[3]。

NICOLAS GHESQUIERE ニコラ・ジェスキエール

ニコラ・ジェスキエールはルイ・ヴィトンのレディース アーティスティック・ディレクター。

ニコラ・ジェスキエール(NICOLAS GHESQUIERE)。1971年、フランス生まれ。ファッション専門学校等で正規の教育は受けていない。

高校時代からコリンヌ・コブソン、アニエスベー等で経験を積み、高校卒業後、19歳でジャンポール・ゴルチエの元で働き始め、2年間ゴルチェのニット部門のアシスタントデザイナーとして働く。その後、ティエリー・ミュグレー、ステファン・ケリアン、トラサルディでヘッドデザイナーを務る。

 
95年頃からフリーランスバレンシアガのライセンス部門の仕事を手がける。

ジョセフュス・ティミスターが一時バレンシアガのデザインを手がけるが、不評で辞任、その後、未知のデザイナーであったジェスキエールが、わずか26歳で抜擢される。当時、ジェスキエールは日本のライセンス・パートナーのためにゴルフウェアなどをデザインしていた。

デビューコレクションの98S/Sは、衝撃的な印象を残し、ブランドが新しく生まれ変わったことをアピール。 2000年10月、ニコラ・ジェスキエールはVHI・ヴォーグファッション・アワードで「アバンギャルド・デザイナー・オブ・ザ・イアー」受賞。1年後の2001年、CFDAのインターナショナル・デザイナー・アワード(国際賞)と「ウーマンズ・ウェア・オブ・ザ・イアー」受賞。

ジェスキエールの才能とブランドとしての歴史的価値に目をつけた、PPR傘下(現ケリング)のグッチのグループ(トム フォードとドメニコ・デ・ソーレ)は、2001年、バレンシアガを買収。グループは事業拡大の戦略を打ち出し、世界の主な首都に旗艦店をオープンしていく。これにより本格的に老舗ブランドが復活していく。この買収には、ジェスキエールの才能を評価してのものと見られている。

バレンシアガは、2001年、バックと靴のラインを発表、2002年、メンズラインを発表し展開を広げている。ジェスキエールは「僕は(低迷する)バレンシアガを救ったが、バレンシアガにも(ファッションデザイナーとして)救われた」とコメントを残している。

2013年、バレンシアガのデザイナーを辞任(なお、後任にはアレキサンダー ワンが就任した。)。同年、ニコラ・ジェスキエールは、マーク ジェイコブスの後任として、ルイ・ヴィトンのアーティスティック・ディレクターに就任した。

Coco Chanel ココ・シャネル

ココ・シャネル(フランス語: Coco Chanel、1883年8月19日 - 1971年1月10日[1])は、20世紀に活動したフランスのファッションデザイナー。20世紀を代表するファッションデザイナーのひとりで、ファッションブランド「シャネル」の創業者[2]。

 

フランス西部ソミュールの救済病院で生まれる。シャネルが12歳の誕生日を迎える前に母のジャンヌが病死、行商人の父アルベールに捨てられ、孤児院や修道院で育った。田舎町ムーランでお針子として18歳で孤児院を出た後、当時つきあいのあった将校たちに連れられ、グラン・カフェで歌手になりたいと夢見るようになる。

「ココ」は愛称で、情熱を実行すべく、お針子仕事の傍ら、歌手を志してキャバレーで歌っていた「Ko Ko Ri Ko(コケコッコウ)」と、「Qui qu'a vu Coco dans le Trocadero(トロカデロでココを見たのはだれ)」という歌の題名にちなんでつけられたもの。

シャネル起業
「シャネル・モード」の帽子(1912年)
「No.5」
その後、歌手を目指しヴィシーでオーディションを受けるも、落選ばかりであったために芸能界への道はあきらめた。この頃交際していた将校であるエティエンヌ・バルサン(en)に伴われてパリ郊外へ移り、友人達の社交場となったバルサンの牧場で過ごす。退屈しのぎで制作していた帽子のデザインがそこで認められ、バルサンの援助により、1909年、パリ17区マルゼルブ大通り(fr)160番地で、帽子のアトリエを開業する。

1910年に、パリ1区カンボン通り(fr)21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。このときバルサンと別れ、同じ輪の中にいた、一生涯愛する人物となるイギリス人青年実業家アーサー・カペルとの交際を始める。カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。

1913年に、ドーヴィルに二号店を開店。翌年に第一次世界大戦が開戦。1915年、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。翌年コレクションを発表し大成功を収める。ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となった。1918年に、第一次世界大戦終戦

シャネルの興隆
1921年、本店をカンボン通り31番地に拡張。前年に会った調香師エルネスト・ボーによって生み出された、シャネル初の香水「No.5」、「No.22」[3]を発表した。

このころ劇作家のジャン・コクトー、画家のパブロ・ピカソ、作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーなどが集うサロンを主催するミシア・セールと出会い、ストラヴィンスキージャン・コクトー、ロシアのドミトリー・パヴロヴィチ大公などサロンの様々な人物と交際する。この頃、同い年である画家・マリー・ローランサン肖像画を描いてもらったが、シャネルはそれを気に入らなかったためにローランサンに返した。この肖像画は現在、パリのオランジュリー美術館に展示されている。

1924年に、シャネルはピエールとポールのヴェルテメール兄弟と契約を結び、社団法人 「パルファム・シャネル」を設立した。ヴェルテメール兄弟は、1917年よりブルジョワ社取締役を務めていた。ヴェルテメール兄弟は、シャネルN°5[4]の生産、マーケティング、流通の資金調達をすべて引き受けることに同意した。彼らは会社の株の70パーセントを保持し、パリの百貨店ギャラリー・ラファイエット創始者テオフィル・バデ(fr)が20パーセントを獲得した。シャネルは自分の名の使用を 「パルファム・シャネル」に許可し、株の10パーセントを手元に残した上で、彼女自身はすべての経営から手を引くことになった[5]が、これにより後の一時引退時にも生活に苦労しないだけの収入を保証された。

また同年に、イギリス一の大富豪、第2代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナーと出会い、以降6年間に及び交際する。この間にグローヴナーから多くもらった宝石類から着想を得た、模造宝石を使ったジュエリーを発表。同時期、後に「シャネル・スーツ」として発表されるスーツの原型がつくられた。

ウェストミンスター公爵と別れた後交際していたポール・イリブは1935年に急死した。1930年代初頭に100万ドルの契約金でハリウッドに招かれて、シャネルの大ファンであった グロリア・スワンソンの映画の衣装制作に携わったが、スクリーン上では地味で見映えの悪いシャネルの衣装は不評で、また彼女自身も他人に命令されることが大嫌いなワンマン体質であった為、僅か二作を手掛けただけでフランスに帰国した。一方、シャネルが一方的にライバル視したエルザ・スキャパレリは1930年代にはハリウッドでもフランスでもシャネル以上に成功し持て囃された。そして嫉妬で怒り狂ったシャネルがパーティー中にエルザのドレスに蝋燭の火を付けたという、今では嘘か信か不明の流言が飛び交うほど、二人の仲は険悪な状態になっていた。

一時引退
1939年、当時4000人を抱える大企業として成長したシャネルだったが、コレクション前の苛烈な労働条件に、労働者側がストライキを敢行。苦労してその地位を築いたシャネルには労働環境を重視する彼らの考えを受け入れられずに対立し、シャネルは一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。

以後、同年9月に勃発し1945年8月に終結した第二次世界大戦中と戦後のスイスへの亡命期(いずれも後述)の15年間、シャネルはフランスのファッション界で沈黙を守る。デザイナーとしては生計が立てられなくなったが、香水部門は比較的好調であったので、その売上金で隠居生活中も比較的余裕のある生活が送ることが出来た。

対独協力と愛人生活
愛人のヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将
第二次世界大戦中の1940年、フランスがアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に占領され、親独のヴィシー政権下となった際、レジスタンスとしてドイツ軍による軍事占領に抵抗した結果、戦死したり、捕えられた末に拷問され処刑された人間が多数いた上に、農作物や日用品から石油までがドイツに略奪されたため、多くのフランス国民が窮乏生活を余儀なくされた。

一方で、シャネルはドイツの国家保安本部SD局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将と懇意になった[6]上に、ゲシュタポの高官のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラージ男爵の愛人になることで、様々な恩恵を受けつつ不自由無く暮らすことが出来た。

ドイツ軍は占領下においたフランスにおけるユダヤ人所有の資産や企業を押収したが(アーリア化)、シャネルにとってはユダヤ人であるヴェルテメール兄弟に売り渡した「パルファム・シャネル」と、その主力商品である「N°5」が生み出す全ての金融資産をタダで取り戻す機会と考えた。

1941年5月5日に、シャネルは「ユダヤ人の金融資産に対する処置」、つまりヴェルテメール兄弟が持つ「パルファム・シャネル」の資産の没収と、自分への移転を願う手紙をドイツ軍の行政官に向けて書いた。この「アーリア人」からの依頼を受けてヴェルテメールの「パルファム・シャネル」に対する所有権は法的に「棄却」され[7]、シャネルに所有権が「合法的に」移ることを画策した。シャネルは、行政官の決定にシェレンベルクとフォン・ディンクラージとの「関係」が後押しするものと期待したが、ドイツ軍による資産押収を予想していたヴェルテメール兄弟は、直前に資産を非ユダヤ人のフェリックス・アミオに移譲していたため、このようなシャネルの謀略は不成功に終わった。

なおシャネルは、当時のドイツの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)と同様の反ユダヤ主義者であるだけでなく、ドイツの諜報活動機関であるアプヴェーアのコードネームを与えられた工作員でもあった[8]。

これらのことから、1944年のシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス軍と連合国軍によるフランス解放後に即座に逮捕され、「対独協力者」、「売国奴」としてフランス中からの非難を浴びた。

亡命生活
しかし、戦前から交流のあったイギリス首相のウィンストン・チャーチルの計らいにより釈放され、その後新たな愛人となったシェレンベルクとともに戦後の数年間を、第二次世界大戦において中立国であったスイスのローザンヌへ脱出し亡命生活を送った[9]。

この血に塗られた亡命生活を支えたのが、シェレンベルクの協力のもとにヴェルテメール兄弟から略奪しようとした「パルファム・シャネル」から入る収入であった。ヴェルテメール兄弟との訴訟を含む激しいやり取りを行った結果、1947年5月に、シャネルは戦時中に受け取ることができなかった「N°5」の利益配分をヴェルテメール兄弟から受け取った上に、将来における「N°5」の売り上げの2パーセントを受け取ることになった。

ファッション界への復帰
ホテル・リッツ
1954年に、スイスでの亡命生活を終えパリに戻ったシャネルは、ヴァンドーム広場を望むホテル・リッツに住まいを構え、ファッション界へ復帰を果たした。この復帰を実現させる資金を支えたのは、かつての亡命生活と同じく「パルファム・シャネル」から入る収入であった。

売国奴」と蔑まれたシャネルの第二次世界大戦時の言動に対する嫌悪感が根強く残っていた当時は、「古臭い」としてフランスやドイツ、イギリスをはじめとするヨーロッパではバッシングを受けるなど散々だったが、シャネルやナチスを含むドイツへの嫌悪感が大戦後10年近い年月を経て薄まっていたアメリカ合衆国では受け入れられた。

翌年シャネル・スーツ(ブレードの縁取りがある、ウールのスーツ)の発表。アメリカで「過去50年間でもっとも大きな影響力を与えたファッションデザイナー」としてモード・オスカー賞を受賞。また、マリリン・モンローなどに愛用された香水がブームとなり、大きな売り上げを稼いだ。

死去
晩年のシャネルは孤独による不安や恐怖などの症状と不眠症に悩まされ、1日1本のモルヒネ注射が欠かせなくなっていた。シャネルは1971年、住居としていたパリのホテル・リッツにて、コレクションの準備中に87歳で没した。

シャネルの亡骸は、第二次世界大戦中のドイツ占領軍への協力及びスパイ行為を含むフランスへの裏切り行為によって、高級墓地への埋葬を拒否されたこともあり、亡命生活を送っていたローザンヌの墓地「ボア・デュ・ヴォー」(セクション9・No.130)に埋葬された。シャネルの遺言により、墓石の周りには白い花が咲き乱れている。

川久保玲

川久保 玲(かわくぼ れい、女性、1942年10月11日[1] - )は、日本のファッションデザイナーで、ファッションブランド「コムデギャルソン」の創始者[2]。株式会社コムデギャルソンの創業者にして設立から現在に至るまで代表取締役社長を務めるオーナーデザイナー。

 

東京に出生。父親は慶應義塾大学の職員であった。慶應義塾大学文学部哲学科を卒業後、株式会社旭化成宣伝部に入社。3年で退職し、フリーランスのスタイリストとなる。
1969年にファッションブランド「コムデギャルソン」(Comme des Garçons、仏:少年のように)を立ち上げ、高級既製服(プレタポルテ、婦人服)の製造・販売を開始。1973年には株式会社コムデギャルソンを設立し、現在も同社社長を務める。
1975年、東京コレクション初参加。
1981年、パリコレクション初参加。体の線を意識し女性性を謳歌するような西洋のデザインとは全く異なる、川久保の直線的でノンセクシャルな初パリ・コレクションは、ボロ布のようだ、ヒロシマ・シックなどと揶揄されたが、そのアバンギャルドな服作りは、パリのファッション界に大きな衝撃を与えた。[3]
1982年、パリコレで伝説の黒服を発表。パリ・オートクチュールを頂点とする世界のモード界を震撼させた川久保の「黒服、穴あきニット(Hole Sweater)」は「黒の衝撃」と呼称された。世界中のファッション・ジャーナリストが賛否両論書きたて、「西洋の服への冒涜!」とする否定派と「新しい女性の生き方」「新しい美しさの提案」とする賛成派で、国際世論は真っ二つに割れた。黒い穴あきセーターを「スイスチーズ(穴あき)のセーター(Swiss cheese sweaters)」と命名したファッションジャーナリスト(Suzy Menkes氏 I・H・T紙)もいた。川久保の黒い穴あきセーターは、日本でも「カラス族」「ぼろルック」として流行した。
1997年のパリコレシクョンでは、体に不自然なコブを付けたライン(テーマ:ボディ ミーツ ドレス、ドレス ミーツ ボディ)を打ち出し[4]、体と服の相互の束縛を解き放つという新しいコンセプトで、尖鋭的なデザイナーとしての地位を確立した[5]。
夫は南アフリカ出身であり、コムデギャルソン・インターナショナルのCEOを務める。もともとは日本語とチベット語専攻のため来日。ファッションデザイナーになった実妹の東京でのビジネスを手伝ったのがきっかけで、ファッション業界に関わり、1987年にパリのコムデギャルソンで働いた。1991年に退職して地中海クラブに移ったが、川久保の要請で翌年コムデギャルソンに戻り、川久保と結婚した。インタビューで夫は「皆誤解しているが、彼女は古い木や犬や猫、大粒のダイヤモンドが好きな優しい女性だ」と述べている[6]。
2001年、芸術選奨受賞。2006年から英スピード社と提携しており、同社製高速水着レーザー・レーサー」の五輪公式デザインも手掛けた。
2012年、ファッション界のオスカー賞と称される、米「CFDA(Council of Fashion Designers of America)ファッション アワード(国際賞)」を受賞(69歳)。
2017年、ニューヨークのメトロポリタン美術館で「Rei Kawakubo/Comme des Garcons  Art of the In-Between」展を開催。展覧会のレポートや独占インタビュー、作品アーカイブなど、同美術館キュレーターのアンドリュー・ボルトン(英語版)よって同年5月から9月までの開催期間にコム デ ギャルソンが多角的に展示紹介された。
2019年の「イサム・ノグチ賞」を受賞することが判明。ファションの分野からの受賞は初めて。

Stella Nina McCartney ステラ・マッカートニー

ステラ・マッカートニー(Stella Nina McCartney, 1971年9月13日 - )は、イギリスのファッションデザイナー。

 

ビートルズポール・マッカートニーとリンダ・マッカートニーの次女としてロンドンに生まれる。

12歳でデザインを始め、15歳でクリスチャン・ラクロワの最初のクチュールコレクションの仕事をした後、サヴィル・ロウで修行を積む。1995年、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザイン卒業コレクションで一躍脚光を浴びる。1997年3月にはカール・ラガーフェルドの後継者として、フランスのクチュールブランド、クロエのチーフ・デザイナーに指名された。2000年、VH1アウォードおよび、ヴォーグ・ファッション・アンド・ミュージック・デザイナー・オブ・ザ・イヤー受賞。

2001年にはクロエを退社し、グッチとのパートナーシップの下で自身のブランド「Stella McCartney」をスタート。デビュー・コレクションは2001年10月の2002春夏パリ・コレクションで披露された。

2002年に雑誌『Wallpaper』の発行者アラスデア・ウィリスとスコットランドのビュート島で結婚。母のリンダがポールと結婚した際に着たウェディングドレスをリメイクして着用した。式にはガイ・リッチーとマドンナ夫妻(当時)、リブ・タイラー、プリテンダーズのクリッシー・ハインド、コールドプレイのクリス・マーティングウィネス・パルトローケイト・モスピアース・ブロスナンらが出席した。その後3人の子ども(息子2人、娘1人)をもうける。

2003年にはバラの香りをベースにした初の香水「ステラ」を発売したほか、ロサンゼルス・ハリウッドにショップをオープンさせた。

2005年春からはアディダスと提携し、女性のためのスポーツウェアライン「Adidas by Stella McCartney」(アディダス・バイ・ステラ・マッカートニー)を発表。また同年H&Mとコラボレートし、「Stella McCartney for H&M」(ステラ・マッカートニー・フォー・H&M)を発表、アンダーウェアからアクセサリーまでデザインしている。最近ではオーガニックな素材だけを使った化粧品のライン「Simply Stella」をスタートさせたほか、イギリスのクレジットカード「Coutts credit card」のデザインも手掛けている。

2013年、ファッション界での功績により大英帝国勲章(OBE)を受章した[1]。

Anthony Vaccarello アンソニー ヴァカレロ

2008年にパリで「アンソニー ヴァカレロ(Anthony Vaccarello)」をスタート。

 

アンソニー ヴァカレロ(Anthony Vaccarello)は、パリのウィメンズファッションブランド。衣服を再構築したかのような作り、アートのようなデザインが特徴。現在当ブランドは終了している模様。

デザイナーはアンソニー・ヴァカレロが務める。1980年、イタリア人の両親の元、ベルギーのブリュッセルにて生まれる。

2006年、イエール国際モードフェスティバルにて大賞を受賞。その後、フェンディにてカール ラガーフェルドのもとで働いた後に、独立を決意。自分のブランド「アンソニー ヴァカレロ(Anthony Vaccarello)」をスタートし、2008年に最初のコレクションを発表。

 
2015年、ヴェルサス ヴェルサーチェのクリエイティブ ディレクターに就任し、アクセサリーを含むメンズ・ウィメンズ両ラインを手掛けるが、2016年に退任。同年、サンローランのクリエイティブ・ディレクターに就任した。