元ユニクロ店員のブログ

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Alessandra Ambrosio アレッサンドラ・アンブロジオ

アレッサンドラ・アンブロジオ(Alessandra Ambrosio、1981年4月11日 - )は、ブラジル出身の女性ファッションモデル。

 

「ヴィクトリアズ・シークレット」などでモデルをつとめる。カタログでは掲載率が高く、アドリアナ・リマなどと並んで同ブランドの“エンジェル”(広告塔)を担っている。

 

アメリカ合衆国に来た際に生活に慣れるまでアドリアナに面倒を見てもらい、姉的存在として慕っている。

趣味はサーフィンや音楽鑑賞。カイピリーニャとチョコレートが大好物で毎日食べている。日本料理も好む。

親友は同じブラジル出身のスーパーモデルのアナ・ベアトリス・バロス。ビジネスマンの夫がおり、2008年に長女を出産。

父親が多発性硬化症を患っており、自身は国立多発性硬化症協会の全権大使も務めている[1]。

Adriana Francesca Lima da Silva アドリアナ・リマ

アドリアナ・フランチェスカ・リマ・ダ・シウヴァ[1](Adriana Francesca Lima da Silva 、1981年6月12日[2] - )は、ブラジル出身のファッションモデル[3]。178センチメートル[4]・86-61-89[5]。ヴィクトリアズ・シークレットの特別広告塔にあたる「エンジェル」の一員としての活動が最もよく知られており、世界屈指の収入を誇るファッションモデル[6]。2000年代以降の西洋世界における代表的なセックスシンボルの一人と目される人物でもある[7]。

 

「アスクメン」によれば、フランス人、ポルトガル人、ネイティブアメリカン、日本人、およびカリブ人の混血[8]。ビクトリアズ・シークレット『スイム・スペシャル』のインタビューにおける本人の主張によれば、日本人、黒人、および西インド連邦人( カリビアンの意味)の混血[9]。だが、日本の血は16/1以下である。[要出典]サルヴァドールに生まれ、1987年[10]―6歳のときに父親が蒸発した[11]。

モデル
小学生時代から地元のミスコンにたびたび出場し優勝するなどしていた[11]。13歳当時、地元のショッピングモールで買い物中にスカウトを受け、15歳時にモデル事務所「フォードモデルズ」主催「スーパーモデル・オブ・ザ・ワールド」のブラジル場所に出場、優勝を経てさらに世界決勝戦で準優勝[12]。1997年に米国・ニューヨークへ移りモデル事務所のエリート・モデル・マネジメントと契約、ファッションブランド「アナ・スイ」のショーが初仕事となった[10]。

デビューの年となった1997年にさっそく「アンナ・モリナーリ」の広告の仕事とブラジル版マリ・クレール誌の表紙の仕事が舞い込み、「エマニュエル・ウンガロ」や「バルマン」のショーを歩くなどして着々と実績を重ねつつあった1999年頃、その経歴を通して最も著名な仕事相手となってゆく「ビクトリアズ・シークレット」との契約を獲得、ほどなくして同ブランドのショーやカタログなどへの登場を開始し、同ブランドの広告塔的なモデルにあたる「エンジェル」の一員となった[10]。

ビクトリアズ・シークレットのブラジャーを手に(2010年)
ラルフ・ローレン」、「ヴェラ・ウォン」、「エンポリオ・アルマーニ」、「フェンディ」、ならびに「ヴァレンティノ」などのブランドのショーを歩いていた2000年頃、ファッションブランド「ゲス」の広告塔へ[10]。それからというもの「ビクトリアズ・シークレット」の仕事以外にも、2003年における「メイベリン」との化粧品契約、ならびに2005年におけるイタリアの巨大携帯電話企業「イタリアテレコム」との広告塔契約などが注目を集めた[10]。「メイベリン」においてはスポークスパーソンに就任し、それから2009年に至るまで広報活動を継続してゆくこととなる[13]。「イタリアテレコム」関連では“イタリアのキャサリン・ゼタ=ジョーンズ”として知名度が上昇するに至った[14]。

「ビクトリアズ・シークレット」絡みでは、2004年、“エンジェルズ・アクロス・アメリカ”と題されたこのブランドの大規模なツアーにタイラ・バンクス、ハイジ・クラム、ジゼル・ブンチェン、およびアレッサンドラ・アンブロジオの4名とともに参加、全米を巡業することとなった[15]。

2005年は米誌『フォーブス』の調査による「世界で最も稼ぐモデル」の一覧に初登場した年でもあった[16]。それからというものこの一覧の常連となり、さらに2007年には雑誌『ピープル』の企画「世界で最も美しい100名」の特集に登場[10]。2008年に出演した米国の国民的スポーツイベントにあたるNFLの優勝決定戦「スーパーボウル」のテレビコマーシャルは1億人以上に視聴されることとなった[17](のち2012年には公式モデルに起用[18])。

仕事を続けながらの結婚、妊娠、出産を経て、2009年には「ジバンシー」の広告塔へ[10]。以後も『ヴォーグ』や『エル』の世界各国版や様々なハイファッションブランドの広告に登場し、2012年からは「ダナ・キャラン」の広告塔ともなった[10]。第二子の出産があったこの年には、タイヤメーカー「ピレリ」の翌年度版カレンダーへの同史上初の妊婦としての登場が話題となる[19]。さらにその出産からわずか8週間でのランウェイ現場への復帰が注目を集める次第ともなった[20]。

マリサ・ミラー(中)ならびにセリタ・エバンクス(右)とともにビクトリアズ・シークレットのモデルとしてキューバグアンタナモ米軍基地を慰労に訪れた2007年のリマ
2013年にも様々な下着ブランドをはじめ「ミュウミュウ」や「ダナ・キャラン」など各種ファッションブランドのイメージモデルを務めた[21]。2014年にはスペイン発のファッションブランド「デシグアル」のイメージキャラクター兼広報大使に就任[22]。同ブランド初の広報大使で、スペインをはじめ、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、ならびにベルギーなどの欧州各国において同ブランドのテレビCMに出演している[23]。同年には「メイベリン(ニューヨーク)」との再契約もあり、スポークスパーソンとして同ブランドの広報活動を再び行ってゆく運びともなった[24]。

Miranda Kerr ミランダ・カー

ミランダ・カー[1](Miranda Kerr、1983年4月20日[2] - )は、オーストラリア出身の女性ファッションモデル[3]。

 

下着ブランド「ビクトリアズ・シークレット」の特別広告塔にあたる“エンジェル”の一員としての活動が最も著名[4]。オーストラリア人初の“エンジェル”となった2008年から同ブランドのショーの仕事を継続的にこなしてきたほか、テレビや雑誌など様々な分野で活躍してきた[5]。シャネル・イマン、ドウツェン・クロース、アドリアナ・リマ等と並び立つ、著名な“ビクトリアズシークレットモデル”とされている[6]。

 

オーストラリアのシドニーに生まれ、Gunnedah(ガナダー)で育つ。1997年に雑誌『ドーリー』のオーディションで優勝するも、13歳という若さからオーストラリア国内で議論が起こるに至り、学業を優先しながらモデル活動を開始。高校卒業後ニューヨークへ移り、2004年にモデル事務所のネクストと契約。

カーの経歴は、2004年にカメラマンのエリック・セバン・マイヤーとともに手がけたオーバー・ジーンズ・パリのキャンペーン広告から始まった。

 

Miranda Kerr © 2003 Erick Seban-Meyer
2006年におけるメイベリン・ニューヨークからのキャンペーンモデル起用がきっかけとなって人気が急上昇[7]。さらにオーストラリア人モデルとして初めてヴィクトリアズ・シークレットに起用され、ヴィクトリアズ・シークレット・エンジェルとなる。2007年のフォーブス誌による「モデル所得番付」では10位にランクインした。

カニエ・ウェストやファレルのシングル「ナンバー・ワン」のミュージックビデオに出演。また、コメディドラマ『ハウ・アイ・メット・ユア・マザー』に出演。スキンケア・ブランド「KORA Organics」を立ち上げている。

Naomi Elaine Campbell ナオミ・キャンベル

ナオミ・キャンベル(Naomi Elaine Campbell、1970年5月22日 - )[2] はイギリスの女性ファッションモデルである。ロンドンでスカウトされ、1980年代からモデルとしての活動を始めた。

 

国際的なファッション雑誌の表紙やミラノやパリなどのファッションショーに登場した。自身の名前を冠にした香水や一連の法律問題でも知られている。ナオミという名前は、旧約聖書・ルツ記に登場する女性の名(Naomi・ナオミあるいはネイオミ)に由来し、ヘブライ人や欧米人に見られる名前である。

 

キャンベルはロンドンのストリーサムで生まれた。彼女の母ヴァレリー・キャンベル(旧姓:モリス)はジャマイカ出身でアフリカ系アメリカ人の元バレエダンサーである。母親の話によると父親は当時18歳のヴァレリーと生後2ヶ月のキャンベルを残して去った。出生証明書にも父親の名前は記載されておらず、母親もキャンベルも父親のアイデンティティを明らかにはしてこなかったが[3]、情報筋が父親は客家系の中国系ジャマイカ人であると明かした[3][4]。

母親がダンス一座「ファンタスティカ」のツアーでヨーロッパにいる間は乳母の下で育った。10歳でイタリア・コンティ・アカデミー・ステージ学校に入り、バレエを学んだ[5]。ダンレイヴァン学校、総合中等学校に通った。

 

彼女の最初のメディア出演は7歳の時である。それは1978年2月のボブ・マーリーの曲『イズ・ディス・ラブ?』のミュージックビデオで生徒役での出演であった。1982年にはカルチャー・クラブの曲『アイル・タンブル・4・ヤ! 〜君のためなら』のビデオにタップダンサーとして出演している。

15歳のある日、コベントガーデンでウィンドウショッピングをしていたときにフォード・モデルの社長ベス・ボルトにスカウトされた。キャンベルはすぐにフルタイムのモデルとして働くことを選択し、エリート・モデル・マネジメントと契約した。ショーモデルとしてキャリアを始めて、すぐにリージーンズやオリンパス社を含む複数の広告に起用された。それらは彼女にアメリカ市場での仕事をもたらした。1986年4月、雑誌『エル』の表紙を飾った。

1988年8月、黒人モデルとして初めてパリ版『ヴォーグ』の表紙を飾った。これは、同誌が黒人モデルの起用を拒絶したことに憤慨した、友人であったイヴ・サン=ローランが、自身のブランドの広告を誌面から全てはずすと脅迫したことで実現したものである。パリ版に加えて、ダニエル・ルーナの次に黒人モデルとしてイギリス版の表紙を飾り(雑誌で働くのを辞退したヴェロニカ・ウェッブの替わりだった)、日本版、中国版『ヴォーグ』や『タイム』の表紙も飾った。雑誌『プレイボーイ』でヌードを撮影したりマドンナの1992年の写真集『SEX』でラッパービッグ・ダディ・ケインと一緒にポーズをとった。キャンベルはこれまでに100以上の雑誌の表紙を飾った。

彼女はジョージ・マイケルのミュージックビデオ『フリーダム!'90』で仲間のスーパーモデル、リンダ・エヴァンジェリスタ、クリスティー・ターリントン、シンディ・クロフォード、タチアナ・パティッツと一緒に主演を務めた。1992年にはマドンナの『エロティカ』のミュージックビデオに出演した。それは写真集『SEX』の撮影風景の場面を特徴とする。その他にマイケル・ジャクソン、ネリー、ジャギド・エッジ、ジェイ・Z、ショーン・コムズ、ノトーリアス・B.I.G.メイシー・グレイ、プリンス、アッシャーのビデオにも出演している。

彼女のキャリアの絶頂期は1990年代初期であった。そのとき彼女はシンディ・クロフォードクラウディア・シファー、クリスティー・ターリントン、リンダ・エヴァンジェリスタケイト・モスと並んで「ビッグシックス」、ターリントンとエヴァンジェリスタと並んで「三位一体」と称された。

2008年に受けたインタビューで「モデルは昇進しなくちゃいけない。スーパーモデルという言葉はちょっと軽々しく使われている感じがするわ。ケイト・モスは明らかにスーパーモデルよ。だけどジゼル・ブンチェン以降はスーパーモデルなんて現れていないと思う」と述べた[6]。2009年の雑誌『グラマー』のインタビューにおいてキャンベルは「あのね、アメリカの大統領は黒人かも知れない。しかし、黒人の女性として私はまだこのビジネスの例外である。私は常に等しく扱われることが難しいと感じる」と述べた。これはキャンベルがファッション産業を「人種差別主義者」とふきかえたとして注目を集めた[7]。

キャンベルはニューヨーク市のIMGモデル、ロンドンのストーム・モデル・マネージメント、パリのマリリン・エージェンシー、ミラノのマネージメント・グループとそれぞれ契約している[8]。

 

Cindy Crawford シンディ・クロフォード

シンディ・クロフォード(Cindy Crawford、本名:シンシア・アン・クロフォード(Cynthia Ann Crawford)、1966年2月20日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州出身のファッションモデル、女優である。カリフォルニア州ビバリーヒルズにあるウィリアム・モリス・エージェンシー所属。左唇上にあるホクロがチャームポイントとしても有名。

 

1966年アメリイリノイ州で生まれる。10歳のときに白血病実弟が死去。16歳の時に両親が離婚し,以後,母と妹との3人家族で生活していた。学業に関しては常に優秀で,高校時代は成績トップであった。将来は医師か科学者になることを夢見ていた。卒業時には成績優秀者として生徒総代を務める。また、同時にモデル活動を始め、高校時代に受けたオーディションでは、日本人にスカウトされ日本で仕事をしたことがある。

名門大学ノースウェスタン大学奨学金を得て入学。化学を専攻するが、1982年シカゴでエリート・モデル・マネジメント主催「Look of the Year」で準優勝し,モデルとしてのキャリアを本格的にスタートするために大学を中退する。

以降、シンディは1990年代にもっとも活動の多いモデルとして1位に上げられ、1993年にはピープル誌の「Most Beautiful People, 1993」を受賞。1995年にはモデル報酬所得者のトップとして「フォーブス誌」が発表するなど、世界のスーパーモデルとなる。

 

モデルとしてニューヨークに移ってすぐ、彼女の最初のブレークは1982年に始まった。1990年代には様々なファッションショーに出演し、ナオミ・キャンベル、クリスティー・ターリントン、リンダ・エヴァンジェリスタクラウディア・シファーらとともにスーパーモデルの黄金時代の中心人物として一時代を築いた。

1990年にはジョージ・マイケルの「フリーダム」のミュージックビデオにもスーパーモデルの1人として出演している。

デビューから600以上の雑誌のカバー(表紙)を飾り、ミラノ、パリ、ニューヨークの殆どのデザイナーのコレクションに出演するなど、有名ファッションブランドの広告の顔として活躍した。

11年間の長期に渡り化粧品メーカーレブロンの顔としても有名である。レブロンと5000万ドル近い額での契約や、時計のオメガ(Omega)やペプシコーラとの2300万ドル以上とも言われる契約など、さまざまなブランドとの契約額は破格の金額に達した。オメガからは自身のデザインオリジナルモデルも発売された。

モデル以外にテレビキャスターとしても活躍。1989年から1995年にかけて担当したHouse of Stely MTVの司会では、番組ファッションショーで大成功を収め、番組主催のフィットネスのビデオがベストセラーになるなど人気を集めた。1992年にはビデオをアメリカ合衆国だけで200万部以上売り上げ、ビルボードの健康フィットネスチャートの1位を獲得した実績を持つ。

その他、1992年のMTVのビデオミュージックアワーズの司会などにも出演。

1997年11月にはアメリカのABC放送局と3年間の契約を交わした。アワード・ウィニングを受賞。ホームコメディー太陽「Third Rock from the Sun」に出演した。

その他にも企業との共同企画で化粧品や家具などのデザインを発売したりしている。彼女自身の名前のついた香水も発売されている。

1991年に俳優のリチャード・ギアと結婚し話題を呼んだが、1995年に離婚。1998年にはロサンゼルスにあるスカイバー(Sky Bar)などを経営する企業家でレストラン、クラブ・オーナーのランディ・ガーバー(Rande Gerber:元フォードモデル)と結婚し、1999年に息子プレスリー(Plesley)、2001年に娘カイア(Kaia)をもうける。長女カイアは、ヴェルサーチの子供服ラインYoung Versace の2012春夏キャンペーンフェイスとしてモデルデビューした。

また、Treatment of Animals (PETA)の白血病患者の為のボランティア活動に参加している。また、ボトックス注射の使用を認めている[2]。

2015年5月には歌手テイラー・スウィフトのミュージックビデオ「Bad Blood」に Headmistress 役で出演している[3]。

Claudia Schiffer クラウディア・シファー

クラウディア・シファーClaudia Schiffer, 1970年8月25日 - )はドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州インベルク (Rheinberg) 出身の女性ファッションモデル、女優である。

 

弁護士の父を持つ裕福な家庭に育った[2]。1987年10月、ドイツデュッセルドルフのナイトクラブでパリの有名モデルエージェンシーメトロポリタン (METROPOLITAN MODELS) のボスであるミッシェル・ラヴァトン (Michel Levaton) によってスカウトされた[3]。

パリに移ると、エージェントのアーリンによって直ぐにプロモートが開始された。雑誌ELLEをきっかけにその後、雑誌500冊以上の表紙を飾り一躍トップモデルとなる。また、すぐにシャネルのデザイナーカール・ラガーフェルド (Karl Lagerfeld) によってシャネルの新しい顔としても選ばれた。

そして、1990年代にはシンディ・クロフォード、クリスティー・ターリントン、リンダ・エヴァンジェリスタ、ステファニー・シーモアナオミ・キャンベルらと共にスーパーモデルとしてファッション界の一世を風靡した。日本でも当時、婦人服小売大手の三貴が展開する専門店ブティック・ジョイのCMキャラクターとして登場していた。

その甘くグラマラスでセクシーな容姿は「ドイツが産んだブリジット・バルドー」、「生きたバービー人形」とも言われ、スーパーモデルの中で最もパパラッチに囲まれていたとも言われている。長年のレブロンのイメージモデルとしても有名である。

現在でも様々なブランドと共に商品開発に携わったり、自身のDVDや本の出版もしている。また、モデル仲間のナオミ・キャンベル、ステファニー・シーモア、クリスティー・ターリントン、エル・マクファーソンと共にニューヨークでレストラン『Fashion cafe』を経営[4]をしたりと実業家の一面も見せている。

1997年は国際ユニセフ大使になり、2006年にはHIV/AIDSについてアメリカ合衆国ユニセフ大使としても活動をしている。

1999年まで5年間、世界的に有名なマジシャンのデビッド・カッパーフィールドと婚約していたが、2000年秋にガイ・リッチー作品『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』のプロデューサーであるマシュー・ヴォーンと出会い、2002年に結婚している[3]。2003年には息子カスパル・マシュー (Caspar Matthew) を出産。2004年には第2子で娘のクレメンタイン・ド・ヴィア・ドラムンド (Clementine de Vere Drummond) を出産している。2004年からは一家でイギリスのロンドンに住んでいる。2010年5月14日には第3子となる女の子を出産した[5]。結婚に合わせてサフォークのコールドハム・ホールを別荘として購入し、ここで結婚式を挙げたが、後にノッティング・ヒルの自宅を引き上げてサフォークへ完全移住している[6][7][8]。

2006年のFIFAワールドカップ大会開幕式典では、ブラジルの「サッカーの王」ペレと共に優勝トロフィーを持って登場した。

Gisele Bündchen ジゼル・ブンチェン

ジゼル・ブンチェン[1](Gisele Bündchen、本名:Gisele Caroline Bündchen[2]、1980年7月20日[3] - )は、ブラジル出身の女性ファッションモデル。

 

アメリカ合衆国を中心に活動。アメリカ合衆国では最も有名で、世界で最も高給取りなスーパーモデルとして知られている。

14歳でモデル業を始動して以降、無数のビルボードやテレビに出演。現在、20を越える諸国のブランド広告に登場している。

2009年にNFL選手のトム・ブレイディと極秘挙式した[4]。

 

1980年7月20日リオグランデ・ド・スル州オリゾンティアのトレス・デ・マイオ(Três de Maio)というドイツ系ブラジル人の町に出生。両親ヴァウディール(Valdir)とヴァニア(Vânia)は両者共ドイツ系ブラジル人であり、ラクェル(Raquel)、グラジエラ(Graziela)、ガブリエラ(Gabriela)、ラファエラ(Rafaela)、パトリシア(Patrícia)の5人の姉妹がいる。

元々はプロのバレーボール選手になるのが夢で、ブラジルの名門チームに入団することも考えたという。非常に痩せていたために、幼年期のあだ名は“オリビア・パリトー”(漫画「ポパイ」に出てくるポパイの彼女オリーブ)と“サラクーラ”(コンゴウクイナ、ブラジルの海鳥)であった。

 

14歳の時マクドナルドでビッグマックを食べていたところ、モデルエージェントからのスカウトを受けるに至る。しかし、このスカウト以前13歳の時から彼女は姉妹パトリシアとガブリエラとともに地元のモデル学校に母に強制的に通わされていた。このモデル学校の講師はティーンエイジャーのモデル教育に非常に熱心な人物で、ジゼルと他の生徒をサンパウロへと連れて行き、大都市見学をさせた後、国際的モデル事務所・エリート・モデル・マネジメントの評価を受けさせた。その後、ジゼルはナショナル・コンテスト「エリート・ルック・オブ・ザ・イヤー」に出場、成績は2位だった。1996年、スペインのイビサ島で行われた世界大会では4位になった。雑誌『ファッション・ウィーク』の誌面を飾ったことをきっかけにニューヨークへ移住、そのキャリアを本格的にスタートさせた。

2006年のファッションショー
1999年、アメリカのケーブルテレビVH1で放送されたVogue Model of the Year awardで評価された後、翌年2000年には俳優キューバ・グッディングJr.と共に同大会のホストを務めた。「ヴォーグ誌」は彼女を“モデル・オブ・ザ・ミレニアム”と評価し「セクシーモデルの再来」と賛辞を送った。しかし同誌は彼女の小ぶりなバストに修正を加え実際より大きくしていたことが発覚し、多くの読者から批判が寄せられた。また同年彼女は「ローリング・ストーン誌」の表紙を飾り(モデルで表紙を飾ったのは世界でわずか4人)、この時「世界で最も美しい女性」と書かれた。

彼女は本格的な米国デビュー後、数多くの有名ブランドの広告塔となった。ブランドにはクリスチャン・ディオールバレンシアガ、ドルチェ&ガッバーナ、Missoni、ヴェルサーチルイ=フェルディナン・セリーヌジバンシー、ブルガリ、ランバン、ゲラン、ヴァレンチノ、ラルフローレン、Earl Jean、ザラ、クロエ、マイケル・コース、ルイ・ヴィトン、ヴィクトリアズ・シークレットなど。また彼女はブラジルの最大手携帯電話会社VIVOマイクロソフト系列Multiplan、カード会社Colcci and Credicardなどの広告も飾っている。

2006年にはアップルのテレビ広告キャンペーン「Get a Mac」の"Better Results"で起用された[5]。

自身専用のサンダルと靴の生産をGrendene(別名Ipanema Gisele Bündchen)に依頼しており、同社の商品は2001年時点で1億足以上が売れた[6]。また南ブラジルに「パラディウム・エグゼクティブ」というホテルを所有している。

ピーター・リンドバーグを始めマリオ・テスティーノ、スティーブン・マイゼル、ニック・ナイト、マート・アンド・マーカス、ランキン、アニー・リーボヴィッツカール・ラガーフェルド、ピーター・リンドバーグ、マリオ・ソレンティ、パトリック・デマルシェリエなど多くの世界的ファッションカメラマンと仕事をこなしており、「ヴォーグ誌」、「ハーパース・バザー誌」、「W誌」、「ELLE誌」、「Allure誌」を始めとした世界的ファッション雑誌のカバーを飾っている。「GQ誌」、「i-D誌」、「The Face誌」、「Arena誌」、「Citizen K誌」、「Flair誌」、「Esquire誌」、「Marie Claire誌」などのマルチメディア雑誌は彼女のファッションだけでなくライフスタイルもフィーチャーしている。「タイム誌」、「ニューズウィーク誌」、「フォーブス誌」、「Vanity Fair誌」、「Veja誌」などの情報誌にも登場することがある。

2015年4月、サンパウロ・ファッションウィークをもって、ランウェイを引退することが報じられる[7]。

映画出演
彼女は映画デビューの際「とても興味がある」と述べた後「私は若いし今できることを精一杯したい。人生はこの瞬間を大事にしなきゃ」と語った。2004年クィーン・ラティファ、ジミー・ファロンと共にティム・ストーリー監督の『TAXI NY(TAXI)』に出演。

2006年にはメリル・ストリープ主演、デヴィッド・フランクル監督の『プラダを着た悪魔(The Devil Wears Prada)』に出演。また同年には「Get a Mac」のCMに再び出演し、その中で軽い演技を披露した。