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Levi's リーバイス

リーバイ・ストラウス(英語:Levi Strauss & Co.)は、アメリカ合衆国を拠点とするアパレルメーカーであり、ジーンズのブランドである。通称はリーバイス(Levi's)。

 

1853年にリーヴァイ・ストラウスがアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで創業。
来歴編集
主要モデルの詳細はジーンズ#特に有名なモデルを参照。

1848年 アメリカ西海岸でゴールドラッシュが始まる。
1850年 カリフォルニアがアメリカ合衆国第31番目の州となる。
1853年 リーヴァイ・ストラウスがサンフランシスコのベイエリアに雑貨店・生地商「リーバイ・ストラウス社」を設立。幌や帆の材料であったキャンバス地による主に港湾労働者向けの作業用パンツを製造・販売。
1870年 ジェイコブ(ヤコブ)・デイヴィスがリーバイス社から仕入れたキャンバス地のパンツ(ウエステッド・オーヴァーオール)にリベット補強を施し、現在のジーンズの原型が完成。
1873年 リーヴァイ・ストラウス、ジェイコブ(ヤコブ)・デイヴィスと共に「金属リベットによる衣服の補強方法に関する特許」を取得。バック・ポケットの裏側に補強布を縫い付けるためアーキュエット・ステッチが施されるようになる。
1880年代 素材をキャンバス地からデニムに変更し、現存する最古のジーンズが生産される。1882年には宣伝にXX(エクストラ・エクシード)デニムという呼称が使われるようになる。
1886年 ツーホース・マーク(2頭の馬で両方から引っ張っても破れないほど頑丈であることを表現する)のレザーパッチがウエストバンドに縫い付けられ、後の 501Ⓡ の基本ディテールが確立される。
1890年 ロット・ナンバーが導入され、ウェステッド・オーヴァーオールに「501」の番号が与えられる。フロントにコインポケット(ウォッチポケット)を設ける。
1902年 バックポケットが2つになり、現在のような5ポケットのスタイルが完成。リーヴァイ・ストラウス死去。
1906年 サンフランシスコ大地震により、本社屋と工場が倒壊。その数週間後、バレンシア工場が建設。
1915年 素材のデニムをノースカロライナ州のコーンミルズ社から調達開始(1922年より同社に一本化)。この頃、デトロイトにあったフォードの自動車工場の生産システムをリーバイスの工場に導入、流れ作業による生産方式が衣料品の縫製工場に適用された米国における最初の例となった[7]。
1922年 初めてウェストバンドにベルトループを設ける。但しサスペンダーボタンは1937年まで継続。
1930年 ボーイズ・モデルを発売(503XX)。
1935年 レディス・モデルを発売(701)。
1936年 コピー製品防止のため、レッド・タブが考案される(1939年に意匠登録)。
1937年 サスペンダーボタンが廃止され、ヒップポケットの補強は隠しリベットとなる。デニム・ジャケット(現在日本でジージャンと通称される衣服)を発売(506XX、ファーストモデル=日本のみの呼称)。当時はブラウスという呼称で販売。
1942年 第二次世界大戦中、物資統制のためアーキュエット・ステッチがペンキ描きとなり、トップボタンは代用品となる。バックストラップ(バックルバック/シンチバック)と股リベットを廃止。この時代のものはコインポケットのリベットも省略される。
1943年 アーキュエット・ステッチを意匠登録。
1947年 アーキュエット・ステッチやコインポケットのリベットが旧に復する(但し、アーキュエット・ステッチはこの時から中央がクロスした縫い方:ダイヤモンドポイントとなる)。全てのボタンが戦前のドーナツボタンから現在の形へと変更される。
1952年 デニム・ジャケットがモデルチェンジ(507XX、セカンドモデル=日本での呼称)。
1954年 映画「ワイルド・ワン(乱暴者=あばれもの)」で主演のマーロン・ブランドが501XXを着用し、ファッションとしてのジーンズの先鞭を付けた。

1955年 この頃にウエスト・バンドのパッチの素材が縮んで劣化しやすいレザーから、オイル紙(これも洗濯を繰り返すと印刷が消えたり破れてなくなる)へと移行。
1960年 当パンツが従来のウェストテッド・オーバーオールから、初めて「ジーンズ」という呼称でフラッシャーに表記されるようになる。
1961年 ホワイトジーンズ=WHITE LEVI'S、ピケ、コーデュロイなどのジーンズを発売。これらがアメリ東海岸で好評を以て迎えられる。
1962年 デニム・ジャケットがモデルチェンジ(557XX)。通称サードモデル(日本での呼称)と呼ばれ、現行モデルの基本形となる。この頃紙パッチから"Every Garment Guaranteed"(通称・ギャラ)の表記が消える(ギャラ入りは557XXの最初期のものまで)。それから暫く置いて、パッチに小さく"Made in U.S.A."と書かれるようになる。501XX などのヒップポケットから隠しリベットが徐々に廃止され、代わりにカンヌキ止め(バータック)が施される。
1963年 初めてプリシュランク「プロセス686 防縮加工デニム」を使用したジッパーフライジーンズ(551ZXX)を発売。アメリ東海岸で好評を以て迎えられる。
1963年頃 真後ろのベルトループがオフセットからセンター取付けになる。
1964年 リーバイスジーンズがワシントンD.C.の国立スミソニアン博物館の展示物になる。
1965年 香港にファーイースト工場および営業拠点を設立。
1966年 リーバイスジーンズのテレビCMが開始。
1967年 バックポケットの隠しリベットを完全に廃止。ロットナンバーの変更(501XX → 501、501ZXX → 502-0117、551ZXX → 505-0217、557XX → 70505-0217)。パッチのロットナンバー表記よりXXが廃止され、501‐0117 のように素材と色の組み合わせが番号により表記される他、ロットナンバー( 501 など)のみ表記のものも出現する。ロットナンバーの数字がローマン体からサンセリフ体に変更された。過渡期には変更前後の両方が表記されたダブルネームも存在。70505以降のデニム・ジャケットはフォースモデル(日本での呼称)と呼ばれることもある。
1968年 二本針ミシンを使った効率化生産ラインで作られる「オレンジ・ラベル」として、606-0217(スリム・ジーンズ)や646-0217(ベルボトムジーンズ)を発売。デニム・ジャケットのパッチが順次小型になる。
1969年頃 パッチに"Care Instructions Inside Garment"と表記されるようになる。中でも501Ⓡ・505・517のうち特定の収縮率を有するタイプは66モデルと呼ばれ、1980年頃まで生産。501Ⓡ・502 以外の 505 などには大型織機で織られる広幅のデニムが使用されるようになり、「セルビッジ付きデニム」が順次廃止になる。ただし、サイドシームの裏側はインターロックではなく、脇割り縫い。アーキュエットステッチがオレンジ糸(合繊)に変わり、従来のイエロー糸(綿)は一旦完全に消滅。
1971年 株式の店頭公開を機に、ロゴ及びタブの表示をLEVI'S(キャピタルE)からLevi's(スモールe)へと変更。ブーツカットジーンズ(517-0217:初回生産にキャピタルEタブが存在)を発売。以降 505 の異素材型 518、ホワイトタブのモデル(606ブラック&ホワイトなど)やコンフォートフィットの 510、515 などを展開し、ラインナップを拡充。デニムの縮みでジッパーに歪みが生じる 502-0117 はアメリカでは生産中止(米国製スモールeも若干ながら存在。以降の香港製などは当然スモールe)。なお、日本では502-0117をワンウォッシュしてシュリンクさせてから販売していた。
1974年 リーバイ・ストラウス社の主催により、デニム・アート・コンテストが開催される。
1975年頃 501Ⓡ、505 などのヒップポケット裏がチェーンステッチとなる(66モデル後期)。
1976年 501XX がスミソニアン博物館の永久コレクションとして加わる。
1977年 ジミー・カーターがリーバイスの愛用者であることを公式発言。
1978年 レッドタブの517に加え、オレンジラベルの517(20517)や異素材の 516 が発売される。ちなみにパッチのツーホースマークなどの印刷は、レッドタブモデルが必ず赤色で、それ以外は大抵が茶色である(コーデュロイジーンズなどにデザインが異なる赤印刷のものも存在する)。
1980年頃 501Ⓡ の収縮率表示が約8%から約10%に変更(505から収縮率約3%の表示がなくなる)、通称ハチマルモデルへと移行。また、日本でジェームズ・ディーンを起用した広告キャンペーンを開始(ジェームズ・ディーン=リーバイスというイメージを日本に定着させるが、実際にジェームズ・ディーンが着用したジーンズはLeeだったことが後に明らかになる)。
1981年頃 501Ⓡ にもセルビッジ無し、脇割り縫いの製品が現れ始め(通称・ハチマルチェーン)1986年頃までセルビッジ付きと共存。
1982年 ストーンウォッシュ加工のジーンズを発売(それまでブルージーンズは未洗いまたはワンウォッシュのみであった)。1980年代半ばにはケミカルウォッシュ、ブリーチ加工(リーバイスではアイスウォッシュと称する)も出現する。ハンドポケットの付いたデニムジャケット 70506 を発売。
1983年 デニム地の調達先であるコーンミルズ社が、セルビッジ一杯まで使用する必要があった29インチ狭幅デニム地の生産を中止。従来タロン、スコーヴィルなどがあったジップフライモデルのジッパーを順次自社ブランド表記に統一(ジッパー・メーカーにOEM発注)。バックボケットの濃紺色糸によるカンヌキ止め(通称・紺カンまたは黒カン)が順次消滅、バータックはオレンジ糸のみとなる(ブルージーンズの場合)。
1985年 リーバイスヨーロッパ企画のシルバータブシリーズを発売。アメリカでの生産はオレンジタブモデルと同じ「ライン8」で行われた。
1986年頃 上記に伴って「セルビッジ付きデニム」の501Ⓡ 生産が一旦終了。501Ⓡ・505 などのブラック&ホワイトや、パッチのロットナンバーが赤文字表記のもの(例:501、レッドタブのモデルのみ)が登場する。紙パッチのロットナンバー・サイズ表記以外の部分がコーティングされるようになる。
1988年頃 501Ⓡ と一部の 505、517 についてパッチのロットナンバー表記の数字が大判化(例:501)。これはロットナンバーのみ表記の場合に限られ、素材・色コード付き表記の場合は小さいまま(例:505 0217)。また米国製は以前の黒文字時代から 510 0217 というようにハイフンを省略。その中で生産工場にもよるが 501xx(xxは小文字)というパッチ表記が復活。この頃には、PRESHRUNKの表示があるモデルは 501 でさえも殆ど収縮しないようになった(他と同じく収縮率3%)。
1991年頃 紙パッチの材質・印刷を改良。洗濯を繰り返しても破れないようになる。数字がスタンプから丸みを帯びた字体の印刷に変わり、素材・色コード付きの表記が再びハイフン入りとなる(例:505-0217)。デニム・ジャケットのパッチが再び大型になる。ルーズフィットの 519(復活型番)・520 を発売。
1992年 先に日本で502(実態は中期の501ZXX。ジッパー・フライ)として生産・発売されていたヴィンテージ復刻ジーンズを、「ビッグEプロダクト」としてアメリカでも生産開始(隠しリベット無し・ボタン・フライの501 1968年モデル)。量産型 501Ⓡ はロットナンバー表記が再び黒文字となり(501xx)、501Ⓡ 以外の量産モデルは紙パッチからXXの表記が消える。1988年頃からこの時期にかけての 505・510・517 にはロットナンバーのみ表記ながら小さい赤文字のものもある((-)0217を省略した形:エルパソ工場製など。例:517)。
1993年 アメリネバダ州で「世界一古いリーバイスジーンズを探すコンテスト」が開催された。最古のジーンズ(1880年代製造)が発見された。
1995年 年間売上が56億ドルを記録。50億ドル突破はアパレル業界で初。
1996年 1955年モデルの復刻、55501を生産開始。
1997年 日本が551Zとして先行していた551ZXX(ジッパー・フライ)の復刻版を生産・販売。米国製の復刻版はリプロダクトまたはリプロデュースと称する。
1998年 リーバイスヨーロッパが、過去のリーバイスジーンズを忠実に復刻するために、LEVI'S VINTAGE CLOTHING(通称・LVC)プロジェクトを開始する。501Ⓡ 以外のモデルも生産工場によっては、ロット・ナンバー表記が再び黒文字となる(例:505)。一方で赤文字の量産モデルでは"Every Garment Guaranteed"の表記が復活したものもある。
2000年 リーバイスのCMに初めて日本人キャラクター(木村拓哉)が出演する・※70年代にはモデルとして日本人を起用したケースはある。アメリカ国外での生産が比重を増し、それまでの 501 = 01デニム、501 以外 = 02デニムという素材についての図式が崩れる。パッチのロットナンバー表記は全て黒文字となり、505-03のように素材コードのみを併記。
2001年 1993年にネバダ州で発見された1880年代製造の現存する世界最古のリーバイスジーンズを、本社がネットオークションで獲得。落札金額は46,532ドル。
2003年 会社創立150周年、ジーンズの誕生から130周年を迎える。だが、バレンシア工場を初めとしたアメリカ国内の自社ジーンズ生産工場をすべて閉鎖。以降、ヨーロッパ企画アメリカ製ヴィンテージ製品やその他のMADE IN USAモデルは、外注生産となる。アメリカにある本社はマーケティング・管理・デザイン開発のみを担当。
2004年 カナダの工場も閉鎖。北米地域の生産国はメキシコ、グアテマラ、ドミニカなどを残すのみとなる。
アメリカ合衆国法人の上場廃止編集
リーバイスアメリカ合衆国で1971年に上場した。リーバイスは一部発展途上国に契約工場を持っており、早くから児童労働の回避を含むガイドラインを制定していたが、1992年、ある契約工場で就労年齢に達しない児童労働の実態が明らかになった。この時リーバイスがとった方針は「現地に学校を作り、子供達を通わせて、就労年齢に達してから再雇用する」というものであった。

しかしこの方針に対して株主からの批判が相次いだ。学校を建てる資金があるなら、株主により還元するべきなのではないかという批判である。そうした批判を受けながらもリーバイスは、同社会長が追求する人権保護や差別撤廃、環境保全フェアトレードなどといった社会的責任を追及する経営を貫くため、「上場企業ほど株主利益に左右されない企業になることを選択する」として、社会に貢献する企業であり続けるために、創業家によるMBOを行いアメリカ合衆国での上場を止めたというエピソードがある。