元ユニクロ店員のブログ

元ユニクロ店員のファッションブログです

United Arrows ユナイテッドアローズ

株式会社ユナイテッドアローズ(英称:United Arrows Ltd.)は、衣類や小物などを販売するセレクトショップユナイテッドアローズ」等を運営する企業である。

 

1989年(平成元年)10月2日[1]、元ビームスの重松理らがアパレル大手のワールドのバックアップを受けて、ビームスからバイヤー30名を引き連れ離脱する形で立ち上げたのが始まりである(現在はワールドから独立している)。事業の主体はセレクトショップの運営であり、旗艦店として1992年(平成4年)開店の「ユナイテッドアローズ原宿本店」(渋谷区神宮前3丁目)がある。

会社名は、毛利元就の「三本の矢」の考えを根底にした「束矢理念」から由来する。ファッション感度の高い層をターゲットとし、自社デザイナーがデザイン・プロデュースした衣類や小物などを全国の直営店で販売する他、海外の衣類や装飾品、小物類の輸入・販売も手がける。また、セレクトショップ運営会社としては唯一の株式公開企業であり、東証一部に上場している。

2007年(平成19年)には、Jリーグ横浜FC」のユニフォームデザインを担当した。

2013年(平成25年)3月末現在の店舗数は、計208店。

BEAMS ビームス

ビームスBEAMS)は1976年に創業した、輸入およびオリジナルの衣料品や雑貨を販売するセレクトショップのことである。また、ビームスが展開するオリジナルの衣料品や雑貨のブランドでもある。2007年3月現在、国内74店舗、海外6店舗(香港、台湾)。

 

創業期
創業者の設楽悦三はもともと1953年創業で段ボール類を製造する新光株式会社を経営していたが、1975年頃に新宿の飲み屋で知り合った人物に紹介された重松理(後のユナイテッドアローズ創業者・会長)を店長として1976年、原宿に6坪の洋品店「AMERICAN LIFE SHOP BEAMS」を開業させた[1]。同店はアメリカ西海岸のカジュアル衣料を直輸入して大成功を収め、1977年には2号店を渋谷の通称「ファイヤー通り」に出店している。

創業期の同社を支えたのは、平凡出版(現マガジンハウス)との深い繋がりだった。設楽悦三の長男である設楽洋(現ビームス社長)はこの当時、電通に勤務していたが、慶應義塾大の学生であった頃に知り合った小黒一三が平凡出版に勤務していたことから、同社は小黒を通して当時『ポパイ』の編集者だった石川次郎松山猛、北村勝彦への人脈を築いた。『ポパイ』編集部はビームスアメリカのファッションの情報を提供し、ビームスがそれを買い付け、『ポパイ』誌面ではそれらのファッションを紹介するというサイクルが成立し、ビームス躍進の原動力となった[2]。

1980年代
1983年、設楽洋は設楽悦三の病気を機に電通からビームスに移り、専務取締役としてマーケティングを担当した。一方、創業期からバイヤーを務めていた重松は常務取締役としてバイヤーたちを統轄し、新たなレーベルを次々に開発していった。この時期、ビームスの会社の規模は大きく成長し、1989年にはホンダと組んで鈴鹿の8時間耐久レースに出場させたチームが初出場で優勝という快挙も成し遂げた。しかしこの翌日、重松を始めとする役職付社員30人程度が一斉に辞表を提出。[3] ワールドをスポンサーとして新たにビームスと競合するセレクトショップユナイテッドアローズ」を創業した。

1990年代
重松らの大量離脱によってビームスは大混乱に陥ったが、松山両三、南馬越一義ら若いバイヤーを抜擢して苦境を脱した。また世界文化社の『ビギン』との間に密接な関係を構築し、同誌が頻繁にビームスの取り扱い商品を紹介したことでビームスは更に売り上げを増やした。

LOUNGE LIZARD ラウンジリザード

1998年、八重樫学、東郷達也、有働幸司がモード学園を卒業後に設立。

 

ラウンジリザード(LOUNGE LIZARD)は日本のファッションブランド。

テーラーリングを基本としたシャープかつスマートなアイテムが魅力。着る人のパーソナリティを重視し、幅広く合わせることの出来る余地を残した洋服作りは多くの人に支持されている。細身のシルエットを基本とし、テーラード調のジャケット、ワーク、ミリタリー、細身のパンツなどのスタイルが特徴。

ラウンジリザードは、1998年、八重樫学、東郷達也、有働幸司によって設立された。原宿にショップをオープン。それぞれモード学園を卒業後、アパレルメーカーなどを経てブランド設立に至った。その後、有働幸司がファクトタム設立のため、東郷達がスリーブラインドマイス設立のために離脱し、現在は八重樫学がデザインを手がける。

 
直営店としては東京、大阪、新潟、静岡(2012年12月)を展開。2013年には、仙台に新店舗「LOUNGE LIZARD -sendai-」をオープン。同年、ラウンジリザード 大阪店の店内にマーズ(M.A.R.S)のコーナーショップをオープン。

2018-19年秋冬コレクションをもってブランド休止。

PORTER 吉田カバン

吉田カバン(よしだかばん)は、日本の鞄メーカー「株式会社吉田(よしだ)」の通称。「吉」の正確な表記は「𠮷」(「土」の下に「口」、つちよし)である[1]。自社ブランドであるPORTER(ポーター)をはじめとする製品を展開している。一貫した国内生産を標榜し[2]、カジュアルやビジネスなど性別、年代を問わず様々な商品を発表している[2]。近年ではアジア圏を中心に海外にも認知を広げ始めている。

 

1935年(昭和10年)に前身である「吉田鞄製作所」が創業者の吉田吉蔵によって設立され、1951年(昭和26年)、現在の「株式会社吉田」に改組し、東神田に本社を移転させる。

1962年(昭和37年)、自社ブランドである「PORTER」を立上げる。

1983年(昭和58年)に同ブランドにおける定番商品となる「TANKER」シリーズを発表。また、その翌年の1984年(昭和59年)には「LUGGAGE LABEL」ブランドを新たに立上げる[2]。

1981年には、当時のチーフディレクターが日本人として初めて「NYデザイナーズ・コレクティブ」のメンバーに選出された。

創業80年以上の歴史がありながら、インラインアイテムにこだわらず、業界の垣根を越え、様々な分野の企業やブランドとコラボレーションしたアイテムを発表しており、その他にも藤原ヒロシプロデュースブランドの「HEAD PORTER」や、BEAMSとの協業ショップである「B印YOSHIDA」など、その展開は多岐にわたる。

 

PORTER - 同社の主力ブランド。名前の由来はホテルでの鞄の運搬係(ポーター)から来ている[3][4][5]。
LUGGAGE LABEL(ラゲッジレーベル) - 1984年に誕生したブランド。こだわりを持つ高感度なユーザーをターゲットにし、製品としての完成度を高めたブランドとなっている[6]。
YOSHIDA (ヨシダ) - 2004年に誕生したブランド。世界市場を視野に入れ、当初は海外の企業やブランドとのコラボレーションを念頭に商品開発がされていたが、2008年には国内の特定店舗にて自社単独企画の商品を発表するようになる[3][7]。
PORTER GIRL (ポーター ガール) - 2009年に誕生した女性向けブランド。機能性を持ちながら女性らしさを意識したアイテムを取り扱っている[3]。

Phoebe Philo フィービー・ファイロ

2001年、ステラ・マッカートニーの後任として、24歳の若さで『クロエ(Chloé)』のクリエイティブ・ディレクターに就任するまでは、ほとんど無名の存在だったフィービー・ファイロ(Phoebe Philo)。本人も、当時は「私の作品をちゃんと知っている人は一人もいなかった」と認めている。しかしステラと親しかった彼女は、97年にステラが『クロエ』で仕事を始めてからずっとアシスタントを務めていた。名門デザイン学校セント・マーティンズを卒業したのも、ステラの翌年(96年)だった。そして彼女を『クロエ』に呼んだのもステラだった。

ステラから学んだことは山ほどあるが、フィービーの感性がステラに影響を与えたことも確か。そして今、フィービーはステラの影から飛び出して活躍する機会を得た。

ステラと同様にベジタリアンだが、ファッションの素材としてレザーやファーを使うことには拒否反応を示さない。

2006年1月、生まれたばかりの娘とゆっくり過ごす時間が欲しいとして、『クロエ』のクリエイティブ・ディレクターを辞任。

2008〜2018年の10年間にわたり、セリーヌのクリエイティブ・ディレクターを務めた。

Lucas Ossendrijver ルカ オッセンドライバー

ルカ オッセンドライバーはランバンのメンズデザイナー。2005年より就任。

 

ルカ オッセンドライバー(Lucas Ossendrijver)は、1971年、オランダ生まれ。95年、アーネムアカデミーで、マスタークラス・ムーラージュ修了。

その後、メンズウェアのデザイナーとしてケンゾー、コスタス ムルクディスで経験を積む。2001年からディオール オムのデザイナーとしてエディ・スリマンのもとで働く。このころクリスヴァンアッシュ、ニコラ アンドレア タラリスなど後に大活躍するデザイナーがスリマンの元で経験を積んでいた。

2005年、ランバンのメンズウェアラインのデザイナーに就任。同ブランドでレディースウェアを手がけるアルベール エルバスとともに、ブランドの成長に大きく貢献。

 
2006年にはフランス、レジオンドヌール勲章シュバリエを受賞。

HANAE MORI) 森 英恵

森 英恵(もり はなえ、1926年1月8日 - )は、日本の女性ファッションデザイナー。地域経済総合研究所評議員森英恵ファッション文化財団理事長。

 

島根県鹿足郡六日市町(現在の吉賀町)出身[1]。父親は山口県の医者の家系に生まれ、大阪で医学を修めた後、母親の郷里である六日市町で開業医となる。父は幼い頃から姉妹の着る服を大阪の高島屋や東京の三越から、メールオーダーで取り寄せていた[2]。

小学校4年生の9月、東京の桃井第三小学校に転校する[2]。

東京都立桜町高等女学校を経て東京女子大学卒業。1948年、学生時代に勤労動員の工場で知り合った元陸軍主計少佐・森賢と結婚する。

夫の家業であった繊維会社で働きながら洋裁学校「ドレスメーカー女学院」に通い[1]、1951年(昭和26年)、新宿東口に洋裁店「ひよしや」を開いた[2]。

1950年代の日本映画全盛期に、『太陽の季節』、『狂った果実』、『彼岸花』、『秋日和』、『秋刀魚の味』、『四十八歳の抵抗』等、 400本にものぼる映画の衣装を手掛けた。[3]

1954年、銀座にブティック&サロン「ハナヱ・モリ」オープン[4]。

1965年にニューヨーク・コレクションに初参加。蝶をモチーフにした女性的でエレガントなドレスが受け、マダム・バタフライと呼ばれてファッション界の話題になった。アメリカでの好評を受け、パリ・コレクションにも進出した。その後、洋服だけでなく、ハナエモリのロゴと蝶のマーク(田中一光デザイン)を冠したライセンス商法をスタートさせ、タオルや魔法瓶、トイレのスリッパに至るまで商品数を増やし、事業の幅を広げた。それまで小規模なビジネスであったクチュール業界において、百億円に近いビジネス拡大は世界のファッション業界を驚かせるもので、ファッションビジネスの未来を切り開いたとして評価され、1977年には、ファッション業界において最も権威的であり、非常に閉鎖的でもあったフランス・オートクチュール協会(Fédération française de la couture)から、アジア人として初めて会員として認められた。これらは、その後の日本人デザイナーの世界進出や、クチュールメゾン(デザイナーハウス)の巨大ビジネス化に寄与している。

顧客にはグレース・ケリー(モナコ王妃)、ソフィア・ローレンなどが名を連ねた。

1983年、青木定雄の懇請によりエムケイタクシーの制服のデザインを制作。それは2005年10月までの22年間使用された。1988年、美空ひばりの病からの復活コンサートでの不死鳥をイメージした衣装をデザインした(美空ひばり森英恵のアイテムなどを愛用していた)。1992年、バルセロナ五輪日本選手団の公式ユニフォームをデザインした。1993年、皇太子妃雅子の結婚の儀の際に着用したローブ・デコルテ(胸元を露出した女性の最高礼装)をデザインした。のちに島根県国際短期大学客員教授に就任した。

1996年10月、世界でビジネスが拡大していた最中に夫の森賢が死去[5]。

2008年、法人内の高等学校の制服をデザインをしていることで関わりがある「都築学園グループ評価・再生委員会」の委員となる[1]。

公益財団法人彫刻の森芸術文化財団理事を務めており、2012年7月、彫刻の森美術館と美ケ原高原美術館館長に就任。