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HANAE MORI) 森 英恵

森 英恵(もり はなえ、1926年1月8日 - )は、日本の女性ファッションデザイナー。地域経済総合研究所評議員森英恵ファッション文化財団理事長。

 

島根県鹿足郡六日市町(現在の吉賀町)出身[1]。父親は山口県の医者の家系に生まれ、大阪で医学を修めた後、母親の郷里である六日市町で開業医となる。父は幼い頃から姉妹の着る服を大阪の高島屋や東京の三越から、メールオーダーで取り寄せていた[2]。

小学校4年生の9月、東京の桃井第三小学校に転校する[2]。

東京都立桜町高等女学校を経て東京女子大学卒業。1948年、学生時代に勤労動員の工場で知り合った元陸軍主計少佐・森賢と結婚する。

夫の家業であった繊維会社で働きながら洋裁学校「ドレスメーカー女学院」に通い[1]、1951年(昭和26年)、新宿東口に洋裁店「ひよしや」を開いた[2]。

1950年代の日本映画全盛期に、『太陽の季節』、『狂った果実』、『彼岸花』、『秋日和』、『秋刀魚の味』、『四十八歳の抵抗』等、 400本にものぼる映画の衣装を手掛けた。[3]

1954年、銀座にブティック&サロン「ハナヱ・モリ」オープン[4]。

1965年にニューヨーク・コレクションに初参加。蝶をモチーフにした女性的でエレガントなドレスが受け、マダム・バタフライと呼ばれてファッション界の話題になった。アメリカでの好評を受け、パリ・コレクションにも進出した。その後、洋服だけでなく、ハナエモリのロゴと蝶のマーク(田中一光デザイン)を冠したライセンス商法をスタートさせ、タオルや魔法瓶、トイレのスリッパに至るまで商品数を増やし、事業の幅を広げた。それまで小規模なビジネスであったクチュール業界において、百億円に近いビジネス拡大は世界のファッション業界を驚かせるもので、ファッションビジネスの未来を切り開いたとして評価され、1977年には、ファッション業界において最も権威的であり、非常に閉鎖的でもあったフランス・オートクチュール協会(Fédération française de la couture)から、アジア人として初めて会員として認められた。これらは、その後の日本人デザイナーの世界進出や、クチュールメゾン(デザイナーハウス)の巨大ビジネス化に寄与している。

顧客にはグレース・ケリー(モナコ王妃)、ソフィア・ローレンなどが名を連ねた。

1983年、青木定雄の懇請によりエムケイタクシーの制服のデザインを制作。それは2005年10月までの22年間使用された。1988年、美空ひばりの病からの復活コンサートでの不死鳥をイメージした衣装をデザインした(美空ひばり森英恵のアイテムなどを愛用していた)。1992年、バルセロナ五輪日本選手団の公式ユニフォームをデザインした。1993年、皇太子妃雅子の結婚の儀の際に着用したローブ・デコルテ(胸元を露出した女性の最高礼装)をデザインした。のちに島根県国際短期大学客員教授に就任した。

1996年10月、世界でビジネスが拡大していた最中に夫の森賢が死去[5]。

2008年、法人内の高等学校の制服をデザインをしていることで関わりがある「都築学園グループ評価・再生委員会」の委員となる[1]。

公益財団法人彫刻の森芸術文化財団理事を務めており、2012年7月、彫刻の森美術館と美ケ原高原美術館館長に就任。