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SUBARU スバル

株式会社SUBARU(スバル、英語: Subaru Corporation)は、日本の自動車・重工業メーカーである。

 

かつての商号は、「富士重工業株式会社」(ふじじゅうこうぎょう、略称:富士重(ふじじゅう)・富士重工(ふじじゅうこう)、英語: Fuji Heavy Industries Ltd.、略称:FHI)であったが、2017年4月1日に自動車のブランド名として広く浸透していた「SUBARU」(スバル)に商号を変更した。

 

1917年(大正6年)5月、中島知久平(元海軍機関大尉)によって群馬県新田郡尾島町(現:太田市)に設立された民営の飛行機研究所を前身とする。太平洋戦争(第二次世界大戦終戦後、GHQにより財閥解体の対象となった中島飛行機(1945年(昭和20年)に富士産業と改称)がプリンス自動車工業と共に解体されたのが 、富士重工業のルーツである。

軍需から非軍需産業への転換、スクーターやバスなどの輸送用機器開発、企業分割などを経て、旧中島系の主要企業の共同により1953年(昭和28年)に富士重工業を設立。1955年(昭和30年)に参画各社が富士重工業に合併されることで企業としての再合同を果たした。

1958年(昭和33年)発売の軽乗用車「スバル・360」と、その派生型である1961年(昭和36年)発売の軽商用車「スバル・サンバー」が技術的・商業的に大きな成功を収めたことで、以後「スバル」ブランドの自動車メーカーとしての地位を確立。その他の分野にも多角的に進出しながら現在に至っている。

富士重工業の誕生まで
中島飛行機編集
四式戦「疾風」
 
中島飛行機は、主として太平洋戦争敗戦まで陸海軍の需要に応え、軍用機および航空用エンジン開発に取り組んだメーカーである。三菱重工業、川崎航空機と並ぶ、日本最大規模の航空機製造会社であった。

特に技師長小山悌の指揮下、陸軍(陸軍航空部隊)の歴代主力戦闘機・九七式戦闘機、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」、四式戦闘機「疾風」[注 2]など、多数の著名な軍用機を送り出した。実戦投入は成らなかったが、日本初のジェットエンジン搭載機「橘花」の機体製造も中島の手に依っている。

航空発動機部門では、軍用ゆえの生産性や戦闘における生存性、前線での整備性などから空冷星型エンジンにほぼ特化しており、一式戦「隼」や零式艦上戦闘機零戦)に搭載された「榮(ハ25)」、四式戦「疾風」や「紫電改」に搭載された「誉(ハ45)」などを開発した。

企業解体と非軍需産業への転進編集
日本の敗戦とともに、GHQより航空機の研究・製造の一切が禁止され、中島飛行機は新たに富士産業[注 3]と改称された。戦時中、最先端の航空機開発に取り組んだ技術者たちの生活は、各工場毎に、自転車、リヤカー、自動車修理、果ては鍋や釜、衣類箱、乳母車などの金属製品を作って糊口を凌ぐ日々へと一変した。

このような状況の中、太田と三鷹工場の技術者たちは、進駐軍の兵士たちが当時移動に利用していたアメリカ製のスクーター「パウエル」に着目する。軽便な移動手段としての販路を見込めると考えられたことからスクーターの国産化が計画され、早速、敗戦後も残っていた陸上爆撃機「銀河」の尾輪をタイヤに利用して試作、1947年(昭和22年)に「ラビットスクーター」として発売した。ラビットは運転が簡易で扱いやすかったことから、戦後日本の混乱期において市場の人気を博し、会社の基盤を支える重要な商品となった。ラビットシリーズのスクーターは、モデルチェンジを繰り返しつつ富士重工業成立後の1968年(昭和43年)まで生産された。

また航空機製造で培った板金・木工技術を活用し、1946年(昭和21年)からバスボディ架装にも進出、特に従前のボンネットバスより床面積を大きく取れるキャブオーバー型ボディの架装で、輸送力不足に悩むバス会社から人気を得た。さらに1949年(昭和24年)にはアメリカ製リアエンジンバスにならい、得意の航空機製造技術を生かした、日本初のモノコックボディ・リアエンジンバス「ふじ号」が完成。フロントエンジン型キャブオーバーバスより更にスペース効率に優れることから成功を収め、以降、日本のバスボディ・シャーシの主流はリアエンジンへ移行していった。

このようにして非軍需産業へ転進した富士産業であったが、1950年(昭和25年)8月、当時の政策によって財閥解体の対象となり、工場毎に15社以上に分割されてしまった。

富士重工業成立
1950年(昭和25年)6月に勃発した朝鮮戦争は、戦後不況にあえぐ日本に「朝鮮特需」をもたらしただけでなく、GHQの日本の占領政策を一変させた。1952年(昭和27年)4月、サンフランシスコ講和条約が発効すると、旧・財閥から民間賠償用としてGHQに接収されていた土地・建物の所有者に返還が始まった。富士工業(太田、三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)を中心とした旧・中島飛行機グループ内での再合同の動きがにわかに活発化、1952年(昭和27年)12月、大宮富士工業(大宮工場)、東京富士産業(旧・中島飛行機・本社)を加えた4社が合併同意文書に調印した。

同じ頃、1953年(昭和28年)の保安庁(現:防衛省)予算に練習機調達予算が計上され、航空機生産再開に向けて、ビーチ・エアクラフトT-34 メンターの製造ライセンス獲得に国内航空機メーカー各社は一斉に動き出した。当時、再合同の途上にあった旧・中島飛行機グループも再合同の動きを加速。1953年(昭和28年)5月には、鉄道車両メーカーとなっていた宇都宮車輛(宇都宮工場)が新たに再合同に参加することが決まり、1953年(昭和28年)7月15日、5社出資による航空機生産を事業目的とする新会社富士重工業株式会社が発足した[注 4]。

1954年(昭和29年)9月、6社が合併契約書に調印。1955年(昭和30年)4月1日、富士重工業は、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輛、東京富士産業の5社を吸収し、正式に富士重工業株式会社としてスタートした(当時の資本金:8億3,050万円、従業員:5,643名)。ロゴは「富士重工」で、「重」の1画目がない形になっており、長らく使用された。

旧・中島飛行機の発動機開発の拠点で、荻窪工場と浜松工場を引き継いだ富士精密工業は、中島飛行機再合同の動きが本格化した1952年(昭和27年)には、事実上、既にタイヤメーカーのブリヂストンの資本下に入っており[注 5]、再合同には参加しなかった[注 6]。また、この時再合同に加わらなかった、富士機械工業[注 7]など3社は、後に富士重工業の関連会社として加わっている。

富士重工業は、1966年(昭和41年)に東邦化学株式会社と合併し、存続会社を東邦化学株式会社とした。この存続会社の東邦化学株式会社は1965年(昭和40年)に商号を富士重工業株式会社と改めた上で合併しているため、一貫して継続した同一名称ではあるが、法律的には従来の富士重工業は1965年(昭和40年)に一旦消滅している。これは株式額面金額変更が目的の事務的なものである。

1966年(昭和41年)、それまで東京・丸の内の内外ビルディングに所在していた本社機能が新宿駅西口(新宿区西新宿)に自社建設した「新宿スバルビル」に移転する。

その後の推移と業務提携
 
この節では自動車部門について述べる。

レオーネを発売した1970年代初頭から、本格的なアメリカ市場への進出を開始。オイルショック排気ガス規制などの消費者の自動車に対する要求の変化や、当時の円安を背景とした廉価性を武器に、国産他メーカーと同じくアメリカ市場での販売台数を飛躍的に伸ばすことに成功した。

1968年(昭和43年)から1999年(平成11年)まではメインバンク(日本興業銀行/現: みずほ銀行)が同じ日産自動車と提携、日産・チェリー、パルサー、サニーなどの委託生産を請負い、工場稼働率のアップを図っていた。しかし、これら横置きエンジンの受託車両とスバル車とはボディ骨格からが大きく異なるため、設計や部品の共用化などが本格的に行われることはなかった。 一方、水面下では、インプレッサの企画段階において直列4気筒を横置きした試作車が作られ、水平対向の制約から逃れて「広い意味での汎用性」に重きを置く商品政策に舵を切る動きもあった。

1970年代中盤からは、南米、オーストラリアを中心としたアジア・オセアニア地方、中東、ヨーロッパなどにも進出。1970年代以前には年産10万台にも満たなかった生産台数を、1970年代後半には20万台規模にまで増やし、順調に企業規模を拡大した。

1985年(昭和60年)9月のプラザ合意以降の急激な円高アメリカ市場との「共生」が求められるようになった時代背景の中で、北米市場での深刻な販売不振に直面。1987年(昭和62年)、いすゞ自動車との共同出資で、スバル・イスズ・オートモーティブ (SIA)を設立して現地生産も開始した[注 8]が、主に魅力的な車種展開が図れなかったことや、企業規模から他国産メーカーと比べ製造コストを劇的に下げることができなかったことなどから、1989年には300億円もの営業赤字に転落。深刻な経営危機が報じられるまでになった。

しかし、折からの「バブル景気」によって資金調達のめどが順調に立ったことや、1989年1月、レガシィの発売以来、順調に国内市場、北米市場での販売を回復することに成功。1990年(平成2年)には日産ディーゼル(現UDトラックス)の経営再建に手腕を発揮した川合勇の下で地道なコスト削減努力が続けられた。WRCへの出場など、CI(コーポレーテッド・イメージ)の積極的な訴求効果とあわせ、年産30万台規模の世界的に見て比較的小規模なマスプロダクツ・メーカーとして現在に至っている。

バブル崩壊後、日産自動車が経営不振に陥り、経営再建の一環として日産自動車保有富士重工業株の売却を決め、2000年(平成12年)に放出株全てがゼネラルモーターズGM)に売却された[注 9]。

2005年(平成17年)10月5日にはGMの業績悪化に伴い、GM保有する富士重工株20%を全て放出。放出株のうち8.7%をトヨタ自動車が引き受けて筆頭株主となり、富士重工業トヨタ自動車が提携することで合意した。トヨタとの資本提携によるスバルの恩恵は大きく、稼働率の下がっていたスバルの北米工場で「トヨタ・カムリ」の生産を請け負ったり、品質管理やコストダウンの方法を学んだりするなどして利益率を高めた。また北米特化の車作りに転換する一方で、風力発電事業や軽自動車生産から撤退するなどの「選択と集中」を進めた。軽自動車保有層の受け皿としてダイハツ工業車のOEMを受け、販売を継続することとした[1]。こうした努力が2015年の利益率業界1位に繋がっている。また2012年の「86/BRZ」の生産・販売も、トヨタとの提携を生かそうと模索していたことがきっかけであった。

2010年(平成22年)8月、東京都新宿区の本社ビル(新宿スバルビル)が老朽化したことなどに伴い、建物を小田急電鉄に売却した上で、本社機能を東京都渋谷区恵比寿の東京スバルの本社が入っていた「エビススバルビル(旧)」の跡地に新たに建て替える「エビススバルビル(新)」へ移転させることを発表。2014年(平成26年)8月18日、本社移転が完了した。なお、エビススバルビル(新)の一角はスバル恵比寿ショールーム(スバル スター スクエア)および東京スバル恵比寿店として機能する。

2013年(平成23年)1月、ロボット開発で国からの補助金を不正受給していたことが判明し、経済産業省新エネルギー・産業技術総合開発機構NEDO)から計8億250万円の返還処分及び補助金交付停止処分を受ける[2]。

2016年(平成28年)5月、2017年(平成29年)4月1日付で社名を「富士重工業株式会社」から「株式会社SUBARU」に変更することを臨時取締役会で決議した[3]。

2016年10月1日、産業機器部門が自動車部門に統合された。その後、12月7日に「2017年9月30日をもって事業を終息し、一部技術資産と米国販売子会社10月1日付けでヤマハ発動機へ譲渡する契約を締結した」と正式に発表した[4]。これにより、SUBARUは今後自動車生産と航空関連に特化した企業となり、商号変更とともに新時代を迎えることとなる。

米紙『シカゴ・トリビューン』では、スバルの北米市場での成功は、四輪駆動と安全性が裏付ける確かな商品群を、適正価格で販売できるからだと指摘している[5]。『東洋経済』によると、米国における在庫回転期間は、他社が概して2か月のところスバルは半月程度に過ぎず、販売奨励金は570ドルであり、1000ドル以下は異例と報じている[6]。

航空機再生産
T-34 メンター
富士 T-1
1953年(昭和28年)9月、富士重工業はビーチ・エアクラフト社と「T-34 メンター」の製造ライセンス契約に調印。1955年(昭和30年)10月、国産1号機を完成させ、防衛庁への納入を開始した。さらに1957年(昭和32年)11月、戦後初の国産ジェット機「T-1 (練習機)(初鷹)」の開発に成功。中等練習機として1963年(昭和38年)までに66機を防衛庁(現: 防衛省)に納入した。

1965年(昭和40年)8月、民間向け軽飛行機FA-200「エアロスバル」の初飛行に成功。翌1966年(昭和41年)10月から販売を開始。低翼式の機体を採用したFA-200は低速時の安定性に優れ、アクロバット飛行なども可能な万能機として好評を博し、298機を生産した。

戦後初の国産旅客機「YS-11」の開発にも参加。主翼桁と尾翼を担当。この経験はのちに、1973年(昭和48年)12月、アメリカ・ボーイング社とボーイング747の生産分担契約に結実し、1974年(昭和49年)には新世代旅客機ボーイング767の国際共同開発プロジェクトに参加。国際分業に大きな役割を果たした。

一方で1974年(昭和49年)、富士重工業は米国のロックウェル・インターナショナル社と双発ビジネス機FA-300の共同開発を開始。1975年(昭和50年)11月に初飛行に成功、1977年(昭和52年)から販売を開始した。しかし、オイルショックの打撃によりロックウェル社が軽飛行機事業から撤退し計画は頓挫。FA-300は僅か42機で生産を打ち切り、富士重工業も小型機の自社開発を断念する結果となった。

以上のように民需(民間機)については限定された実績にとどまるが、官需(もっぱら陸海空の各自衛隊機)については「T-34」や「T-1」の後も順調に実績を重ねてきた。詳細は#航空宇宙部門の節を参照。民間機についても、1990年代以後の潮流として増えてきている国際・複数企業による共同開発にいくつか関与している。