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Karl Lagerfeld カール・ラガーフェルド

カール・オットー・ラガーフェルド[5](Karl Lagerfeld、1933年9月10日 - 2019年2月19日)は、ドイツハンブルグ出身のファッションデザイナー、写真家。パリを拠点にしている。シャネル、フェンディ、それに自身のシグネチャーブランドのヘッドデザイナー、あるいはクリエイティブ・ディレクターを務めている。また、その他にも様々なファッションあるいはアートのプロジェクトで単発的なコラボレーションも行っている。ポニーテールの白い髪・暗い色のサングラス・高い襟のシャツというビジュアルでも認知されている[6]。

 

カール・ラガーフェルドは1933年の9月10日、ドイツのハンブルグに生まれる[5]。父親はビジネスマ

パリオートクチュール組合が経営する学校にてファッションを学ぶ。この時の同級生にアルジェリアから来たイヴ・サン=ローラン、それに日本から来た小池千枝が居た。1955年、国際羊毛事務局(International Wool Secretariat 現ザ・ウールマーク・カンパニー)の支援するデザインコンテストのコート部門で優勝したカールはピエール・バルマンのアシスタントとして雇われた。3年間バルマンの下で働いたのちの1958年、ジャン・パトゥの下に移籍して5年間にわたり年2回発表されるオートクチュールのデザインを行った。

彼の最初のコレクションは1958年の7月に2時間の時間を使って披露された。なお、この時はローランド・カール(Roland Karl)の名前を使っている。(後年の1962年ごろの記事ではカールの名前はKarl LagerfeltとかKarl Logerfeldとよく誤植されていた。)この最初のコレクションの反応は決して良いものではなかった。アメリカのファッションジャーナリストであるキャリー・ドノバンの記事によれば「看板(press booed)を集めたようなコレクション。」[8]また、UPI通信社の記事によれば「会社の新しいデザイナー 25歳のローランド・カールのコレクションは引き延ばされた形で昨年の袋形のフォルムの流れを無視したものである」とのことであった。なおカールは、このシーズンのシルエットをアルファベットの「K」になぞらえたものと言っている。正面のまっすぐなライン、ウエストの後方でとった曲線、長いスカートの組み合わせがその示すところである。

彼が1960年の春のシーズンにデザインしたスカートはその年のパリで一番短いものだった。しかし、コレクションの反応はそれほど良いものではなく、キャリー・ドノバンは「既製服(ready-to-wear)としては十分良く売れるだろうが、しかしオートクチュールではない」と切り捨てた。それでも1960年代も後半の頃になると、徐々にカールの発表するコレクションの評価も悪くないものになってきていたが、いまひとつという状況が続いた。この頃を「ウンザリして、仕事を辞めて、学校に戻ろうと思ったが上手くいかなかった。だからそれから2年間を主にビーチで過ごした。そこで人生というものを学んだと思う」とカールは評している。

1963年、カールはTizianiというその年にテキサス出身のアメリカ人エヴァン・リチャ―ズによってローマで創業された店のためのデザインの仕事を始めた。そこではまずオートクチュールを、続いて既製服にも製造が拡大された。1963年、カールとエヴァンは共同でデザインを行い最初のコレクションを仕上げた。このブランドの顧客にはエリザベス・テイラージーナ・ロロブリジーダ,ドリス・デュークといった著名人が名を連ねた。結局カールはこのブランドのデザインを1969年まで行った。(なお後任はGuy Douvierという人物)

1964年には、フリーランスのデザイナーとしてクロエと契約。最初のうちはシーズンごとに数点のデザインをするだけであったが、徐々に多くを担う様になり、それからコレクション全部をデザインするまでになった。このクロエとの協業は1978年まで続き、1992年には再びデザイナーに復帰している(二度目は1997年まで)。1965年には毛皮で有名なフェンディと契約し、デザイナーの仕事を開始。フェンディとの契約によるデザイン職は既に50年を超えている。

1970年には、その前年の11月に創業者(Gigliola Curiel)を亡くしたローマのオートクチュール店Curielのためにデザインを始める。最初のコレクションは1930年代の銀幕スターのためにデザインされた様な「ポタポタと落ち感のあるエレガンス」と評された[9]。

1970年代には、舞台衣装のデザインを行っていた時期もある。その中にはミラノのスカラ座のための仕事なども含まれる。

1980年代には様々な会社と契約を結んでデザインを行っている。例えば、伊勢丹と契約してデザインをし、メンズ、ウィメンズで30点ほどの製品を発表した。他にもアメリカの会社(Eve Stillmann)との契約によるランジェリーのデザインや、靴、セーターのデザインを行っている。

1982年シャネルと契約[6]。(詳細は後述)

ンのオットー・ラガーフェルド(1881-1967)、母親はエリザベス・バーマン(1897-1978)。彼の父オットーは無糖練乳を生産・輸入する会社を所有していた。また母のエリザベスはオットーと出会ったころ下着のセールスの仕事をしていてベルリンに住んでいた。また、母方の祖父であるカール・バーマンは中央党 (ドイツ)の地元政治家であった[5]。オットーとエリザベスは1930年に結婚した[7]。一家は復古カトリック教会に従う家庭だった。