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Issey Miyake 三宅 一生

広島県広島市生まれ。

広島大学附属東雲中学校[3]、広島県立広島国泰寺高等学校卒業[4]後、多摩美術大学図案科に入学[5]。1960年、東京で開催された世界デザイン会議に際して、衣服デザインの分野が含まれていないのはなぜかという質問状を送り、反響を呼んだ。アートディレクターの村越襄からオファーを受けた東洋レーヨン(現・東レ)の1963年版カレンダー用の衣装制作が最初の仕事となった。卒業後、はじめてのショウ「布と石の詩」をおこなった。

1965年パリに渡り、パリ洋裁組合学校「サンディカ」で学ぶ。1966年にギ・ラロッシュのアシスタントとなり、その後ジバンシィでデシナトゥール(完成した服を絵にする仕事)になる。1968年、五月革命に遭遇。デモに参加する若者たちの姿を見て、「こういう人たちの服を作りたい」と決意する。パリでの修行の後、ニューヨークへ移り既製服の経験を積む。 

帰国後、1970年に「三宅デザイン事務所」を設立し、翌年2月にはニューヨーク市内のデパートに「イッセイ ミヤケ」のコーナーを開設した。

1973年から1999年までパリ・コレクションに参加。「一枚の布」という考え方でクチュールの概念を変革する。2000年春夏コレクション以降、ブランドを後進に引き継ぐ。

服作りにおいて、三宅は一貫して独自の素材開発をおこなってきた。

1988年、服の形に縫製してからプリーツをかける「製品プリーツ」という手法を開発した。

1993年、プリーツ素材の改良と量産体制を整え、PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKEをスタートさせた。

1994年、ロバート・アルトマンの『プレタポルテ』に出演。

1998年、コンピューター・テクノロジーを用いて、一本の糸から一体成型された縫い目のない服を作りだすA-POC (A Piece Of Cloth) の仕事を始める。

2007年、研究開発チーム「リアリティ・ラボ(Reality Lab.)を結成し、あたらしいものづくりの開発をはじめる。その結果として、2010年に132 5. ISSEY MIYAKE を発表。様々な三次元造形を折りたたみ、プレスし、切り込み線の位置を変えることで、衣服を生み出す。素材には、改良を重ね開発した再生ポリエステルの生地を用い、現代のものづくりへのメッセージを発信している。

2013年には男性のためのプリーツ=新しい日常着を提案するブランド、HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE を発表。

2016年にはグラフィックデザイナー田中一光の作品を衣服に融合させるIKKO TANAKA ISSEY MIYAKE もスタートさせている。

いずれの仕事も「一枚の布」というコンセプトに基づいている。