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Dior ディオール

1946年 - 才能を見抜いた木綿王マルセル・ブサックの援助で独立し創業
1947年 - 2月12日クリスチャン・ディオール初のオートクチュール・コレクションを開催。戦後間もない簡素な装いの時代に贅沢な素材女性らしいシルエットで全世界に衝撃を与え、女性たちを魅了した。コロール(花冠)ラインは、当時ハーパス バザーUSの編集長であったカーメル・スノーにより「ニュールックだ!」との言葉からその後「ニュールック」といわれ、その伝説の誕生後、毎シーズンごとに様々なラインを発表し続けた。
1947年 - クリスチャン・ディオールは「パルファン・クリスチャン・ディオール」の創設 - このハウスを創設した際に最初に没頭したことのひとつは、彼が思い描くモダンな女性のエレガンスにぴったりのフレグランスを創ることであった。 ディオールの初のフレグランス、「ミス ディオール」は、彼のファーストコレクションと同時に創られた
1950年 - 「バーティカルライン」発表。
1950年 - 「オブリックライン」発表。
1951年 - 「オーバルライン」発表。
1953年 - 「クーポールライン」発表。
1954年 - 「チューリップライン」発表。
1955年 - 「Yライン」発表。
1955年 - 「アローライン」発表。
1956年 - 「マグネットライン」発表。
1957年 - 「リバティーライン」発表。
1957年 - 「スピンドルライン」発表
1957年 - クリスチャン・ディオールトスカーナで急逝後、イヴ・サンローランが21歳の若さでディオール社の主任デザイナーに抜擢される。「トラペーズ(台形)ライン」を発表
1960年 - イヴ・サンローランが徴兵により兵役に就いた為、主任デザイナーにマルク・ボアンが就任。
1961年 - 「スリムルック」発表。
1967年 - 「サファリルック」発表。
1968年 - パルファン・クリスチャン・ディオールがモエ・ヘネシー[1]社(現・LVMH)に買収される。
1970年 - 「マキシルック」発表。
1978年 - 親会社のマルセル・ブサック・グループが倒産するが、流通大手のウィロ兄弟によって救済され、アガッシュ=ウィログループに入る。
1984年 - ベルナール・アルノーが、フランスの投資銀行「ラザール・フレール」と組んでマルセル・ブサック・グループを買収する。
1989年 - 主任デザイナーにジャンフランコ・フェレが就任。
1990年 - ベルナール・アルノーが買収によって「LVMH」の社長に就任。これによりディオールは同社傘下となる。
1995年 - メゾンアイコンバッグ「Lady Dior」が誕生。故ダイアナ妃がパリのグランパレでLVMHグループの後援により開催されたセザンヌ展を訪問された際にシラク前大統領夫人から贈られた。当時この世界でもっともメディアに注目される女性 - ダイアナ妃の公の場で愛用するバッグとして認知を広めた。元々別名での発売であったが、1996年ダイアナ妃への敬意を込めて、妃の承認の元に「レディ ディオール」と改名された
1996年 - ジャンフランコ・フェレとの契約期間満了後、ベルナール・アルノーが当時LVMHグループの「ジバンシー」のデザイナーだったジョン・ガリアーノを指名、主任デザイナーに就任。
1999年 - ファインジュエリー部門のデザイナーにヴィクトワール・ド・カステラーヌが就任。
2001年 - 「ディオール オム」の主任デザイナーにエディ・スリマンが就任。
2007年 - 2007-08 A/Wパリ・メンズコレクションを最後に「ディオール オム」のエディ・スリマンが辞任。後任にエディ・スリマンの元ファースト アシスタント、クリス・ヴァン・アッシュが就任。
2011年3月1日 - ガリアーノを解雇。人種差別・ナチス賛美発言を行ったとの嫌疑で逮捕・起訴され、ディオールの名誉を傷つけたため。これ以降約1年間、レディース商品のデザインはデザインチームが行なった。
2012年4月9日 - 空席となっていた主任デザイナーにラフ・シモンズが就任。
2015年 - ラフ・シモンズが主任デザイナーを突然退任。2015年10月2日の『2016年春夏コレクション』がラストコレクション。
2016年7月8日 - 空席だった主任デザイナーに、前ヴァレンティノのクリエイティブ ディクレターマリア・グラツィア・キウリが就任。Dior初の女性主任デザイナーの初コレクションは、2016年9月30日パリで行われた『2017年春夏コレクション』
2019年 - キム・ジョーンズがデザイナーに就任。